お願いだから、つかまえて
待って待って待って、と声が背後で聞こえた気がして、私は足を止めた。
就業時間をだいぶ過ぎて閑散としている会社のロビーで、エレベーターから出てきたばっかりらしい理紗さんが駆け寄ってくるところだった。
「そこまで一緒に帰ろ。」
「もういいんですか?」
「うん、切り上げてきた、私が帰らないと怜士くん家に入れないから。」
「あーなるほどー」
走って乱れたさらさらの髪を整える理紗さんの左手の薬指には、さりげなく結婚指輪が輝いている。
「なんだかんだ言って友理奈ちゃん、時間過ぎても長戸さんにアドバイスしてあげてたでしょ? まだ居るかなと思って電話したんだけど。」
「えっ? 気付かなかった。」
私はパンツのポケットに手を入れ、スマホを取り出そうとしたのだけど。
「あれ? ない…」
あー、忘れたー!
「戻らなきゃー。理紗さん先帰ってて下さい!」
「あ、そうなの? うん、待ってると言いたいとこだけどごめんね、また明日!」
「ハーイ」
追いかけてきてくれた割に、理紗さんはあっさり私を見捨てた。
理紗さんのそういうところが私は好きだ。
何も大の大人が、鍵を忘れたからといってブルブル震えながら家の前で待ってるわけはないんだけど、理紗さんは律儀に早足で会社を出ていく。
これから4階に戻るのかと憂鬱な気分だったけど、もう利用する人がいなくなったエレベーターはすぐに来て、私は案外すんなりさっきまでいたフロアに戻ってきた。
電気が点いていたので、ノックしてドアを開けたら。
「あ、悪い理紗、ペン借りたままだった…」
たった一人残っていた矢田さんが言いながらパソコンから顔を上げた。