お願いだから、つかまえて

「…と、前田だったか。」

少しバツが悪そうな顔をして、どうした、と言った。

「すみません前田で。」
「いや…」
「理紗さんなら彼が家の鍵を忘れたとかで、慌てて帰っていきましたけど。」
「そうか。」

こんな軽い揺さぶりには全く動じず、矢田さんは軽く頷いただけだった。つまんない。

「私はスマホ忘れただけなんで。」
「そうか、気をつけて帰れよ。」

ハーイ、と言ってフロアを出たけど、お茶でも淹れてあげようか、と思いついて給湯室に寄った。
たぶん理紗さんなら、そうしたし。

「はい、どーぞ。お疲れ様です。」

デスクにことん、とカップを置くと、矢田さんが少し驚いたように眉を上げた。

「おぉ悪いな、ありがとう。」
「前田がお茶を淹れてさしあげるのがそんなに意外ですか?」
「お前なー、絡むなよ。」

矢田さんは苦笑して、カップを手に取った。
仕事は一段落したのか、椅子の背もたれに思いきり寄っかかっている。
ので、話していてもいいのかな、と思った。

「失恋の傷は癒えました?」
「お前なあ。」

矢田さんはまた苦笑する。

「30超えたおっさんをからかうんじゃない。」

言いながら、大きな手でネクタイを緩めだした。
ちょっとは動揺してるってことなのかなあ。
襟元から男らしい、太めの首が露わになって、私はドキッとした。

ん?

ドキッとする、のはおかしいな。

矢田さん好きかもですとか言ってみたのは、長戸の神経を逆撫でしてやる為だし。
理紗さんと別れたからって長戸とくっついたりしたら、冗談じゃないと思っただけだし。
あ、でも矢田さんは顔が小さいから、首が太めに見えるんだなあとか、やっぱりこうしてつくづく眺めると素敵な男性を絵に描いたような人だなあとか。

思ったり…?
< 172 / 194 >

この作品をシェア

pagetop