お願いだから、つかまえて
辛辣な声に我に返ると、開けた会議室のドアに寄りかかって両腕を組んでいる前田が、しらけた目で俺を見ていた。
「そんなに惜しいなら、なーんでさっさと結婚しなかったんだか。明日やろうは馬鹿やろうなんですよ。」
こいつは、上司に対する礼儀というものを知らない。
その上、人の機微を見抜く能力が高く、俺の考えていることもこうして言い当ててくるから質が悪い。
「お前なあ、そんなこと言いに来たのかよ。」
「違いますー、私は後片付けをする理紗さんを手伝いに来たんですー。」
理紗は前田のこ憎たらしい口の利き方には慣れっこで、たしなめることもせず、ありがとー、と流している。
前田はずっと理紗を慕っているから、その彼氏であった俺には、必然的に懐いてはいた。
だけど、理紗と別れてからはその度合いを大幅に超えて、俺に絡んでくるようになっている。こんな態度でも、心配してくれている、ということなんだろうか。
「いいですよ、今夜あたり飲みに行ってあげますよ。私も佐々木さん優先の理紗さんになかなか相手してもらえなくて、寂しかったところなんで。」
「結構だ。」
「しょうがないなー、矢田さん友達いないから、私くらいしか愚痴聞いてくれる人、いないですもんねー。」
「お前は俺の友達なのか? 部下じゃないのか?」
「しょうがないなー、友達になってあげますよ。」
理紗が耐えかねて噴き出した。本当に、舐めている。俺はいつからこんなに部下に舐められるようになったのだろう。
とはいえ、こいつがこうして、ご飯やら飲みにやら連れまわしてくれるお陰で、覚悟していたよりはるかに虚無感に浸る時間が少なくて済んでいるのは、残念ながら確かだ。
理紗を失ったことを心の底から身に染みて実感するのは、仕事から離れている時だ。
そのせいでより一層仕事に打ち込むようになってしまったが、その他の時間を潰されるのは、正直、今は有り難い…