婚約はとろけるような嘘と一緒に
十分に仕事を与えてもらえないことも、あまりに低いレベルの仕事しかやらせてもらえないのも、パワハラの一種らしい。でも仕事を取り上げられるのは先輩たちが悪いんじゃない。きっと私が無能でやる気のない社員であるのがいけないんだ。
それに父に大恩のある社長が、「くれぐれも三美さんに残業させないように」だとか「大きな仕事を任せて無理させないように」だとかきつくお達しを出しているのだから、私がこういう状況に置かれていることは仕方のないことなのだ。
「………これからどうやって終業まで過ごそうかな……」
誰もいないリフレッシュルームのソファに腰掛けて、ぼやきながら買ったばかりの珈琲に口を付ける。途端に口いっぱいに人工甘味料の不自然な甘さが広がっていく。
「………うぅ、砂糖水の味……」
カップ式の自販機で買った珈琲は色こそそれっぽい琥珀色をしているけれど、香りの開き方が弱くて味も薄く、珈琲特有の酸味や甘味や油分のなめらかさが感じられない。
珈琲だと思って飲むと正直飲めた代物じゃない。だからいつもジュースか何かだと思って飲み下していた。
「あー。早く涼子さんの珈琲飲みたいなぁ……」
会社に来ることはつらいことだったけれど、就業後のことを考えると自然と頬が緩んでしまう。
仕事が終わると真っ先に向かう『ひばり舎』は、私が父や母に内緒で働いているちいさな珈琲ショップだ。貰える賃金は僅かなものだし、今はまだただのウェイトレスでしかないけれど、『働いている』という充実感はあの場所にいるときだけ感じることが出来た。
(今日は布施くんに伝票のチェックの仕方を教えてもらって、それからまきば屋さんと入荷するドーナッツの種類を打合せをして、それからそうだ、おトイレの芳香剤切れてたから行く前にドラッグストアで買っていこ。涼子さんそういうところ全然無頓着だからなぁ……)
「三美さん?またこんなところでサボり?」
考え事をしてる最中にいきなり声を掛けられたから、私はまるでやましいことがあるときのように肩を跳ね上げてオーバーなリアクションを取ってしまう。声のした方を見れば、営業一課のエースがそんな私を見て苦笑していた。
「清木さん?!」
「おつかれ。今ちょうど出先から戻って来たところなんだ。俺も何か飲もうかな。隣座ってもいい?」
私のすぐ隣に腰を下ろした清木さんは、長い足を組みながら私の顔を覗き込んでくる。