婚約はとろけるような嘘と一緒に
ミツミ飲料の企画室のメンバーとの最後の打合せを終えた後、社長の三美氏に個人的に呼ばれたので何かあるなとは予感していた。
この三美社長は企画会議や販促会議に積極的に顔を出して意見を述べる豪胆な人で、自社の末端で働く下位の者たちに交じって酒を酌み交わしたり、異業種の経営者たちとも自ら進んで付き合おうとするとても社交的な人物だ。
けれど人の警戒心を解いてしまうその笑みの中に、人を量ろうとする冷徹で鋭い経営者の目を隠し持っている。その目を向けて、三美社長は聞いてくる。
「私は結婚をしてこそ男は一人前だと思っているが、君はどう思う?」
請け負った仕事には概ね満足してもらえたようだと、今日の打合せの雰囲気や三美氏の表情で手ごたえを掴んでいる。だから三美社長のこの言葉は、もしかしたら新しい商品企画にまつわる質問なのかと思いを巡らす。
(何気ない話題を振ってきたときほどこの社長はよく人を観察しているから、ただの世間話だとは思わない方が良さそうだ)
珈琲のカップを手に持ったまま、理人がこれはどんな意図があって出された言葉なのかを冷静に思案していると、その沈黙にしびれを切らしたのか隣で澄ました顔で座っていた兄がそつのない笑みを浮かべながら理人の代わりに突然口を開いた。
「三美社長のおっしゃるとおりです。こいつは仕事仕事と言い訳していまだに独り身のまま。不肖の弟でお恥ずかしい限りです」
5年も前に結婚をして二人の子供にも恵まれているよき家庭人の兄はそんな言い様をしてくれる。けれど理人自身は独身であることを特別恥じたことなどない。
それでもクライアントの気分を害さないためにも「自分は甲斐性のない未熟な人間ですので、結婚はまだ当面先になりそうです」と大人しく追従の態度を示すと、三美社長はその答えが気に入らなかったらしく途端に太い眉を逆立てる。
「まったく君は可愛げのない男だな。甲斐性がないなどとこの口がよく言うものだ。君は飲食業界の救世主とも呼ばれているやり手のコンサルタントだろう」
「よかったな、理人。社長はおまえの仕事を買ってくださっている」
すかさず口を挟んできた兄が、妙に意味ありげな視線をちらりと寄越してきたから嫌な予感はした。
「そうだ、三美社長。どうかうちの不肖の弟の結婚相手を世話してくださいませんか」
「兄………いえ常務、いったい何を言い出すんですか」
兄を横目で睨んでやるも、鋭い視線など痛くも痒くもないとばかりに兄は涼しい顔で三美氏に言い募る。