婚約はとろけるような嘘と一緒に
私がキッチンに立ってミルクパンで牛乳を温めていると、急に客席が騒がしくなってきた。
「あらよー、なんだこの牛乳の臭いは。せっかくの珈琲の香りが台無しだぞー」
なぜか芝居ががった声でそう言い出したのは、山田さん。
「おお、そうだそうだ。店の中がこの臭いじゃ涼子さんの珈琲が台無しだなあ」
これは出版社に勤めている、定年間近の安藤さん。やっぱりなぜか棒読みみたいな喋り方だ。
「高見くんも珈琲屋に来てホット牛乳頼むなんて、困ったもんだなあ!」
聞こえよがしに言ってくるのは、タキさんだ。集中砲火を浴びたタカミさんは降参するように両手を上げると、
「じゃあ俺は表で飲みます。……すまないが持ってきてくれるかな?」
私にそういうと、タカミさんは店の外へ出て行ってしまう。
「すみません、こんな場所でお待たせして」
私がカップを持って店外に出て行くと、タカミさんはお店の入り口のわきの壁にもたれるようにして佇んでいた。
ひばり舎は大通りから一本中に入った人通りの少ない場所にあって外灯はあるけど薄暗く、店の前はテラス席もない。そんな場所にお客さんを待たせるのは申し訳なかったけれど、高見さんは不満そうになんてしてなくて、カップを受け取るとむしろ嬉しそうに微笑む。
「ああ、ありがとう。悪いね」
「いえ。ミルク、膜が出来ない温度にぬるめに温めたので、もう飲み頃だと思いますよ」
「そう?だったらさっそくいただこうかな」
そういってタカミさんがカップに口を付けようとすると、背後でガチャリと施錠する音が聞こえた。見れば入り口のドアに張り付いた山田さんがガラス越しにこちらを見てにやにや笑っていた。
嫌な予感を覚えてすぐにドアノブに手を掛けてみたけれど、捻ってもびくともしない。山田さんが故意に私を締め出したようだ。
「………ちょっと山田さんっ!?開けてください!!」
ドアを拳でドンドン叩きながら必死に言い募るけれど、中にいる山田さんや常連客の方々は何が面白いのかたのし気に笑うばかりで鍵を開けてくれない。
「安藤さん、タキさんでもいいからもう、開けてくださいっ!!なんの嫌がらせなんですか!!ひどいですよ!!」
「いいじゃないか。有難くも休憩をくれたんだろう。君もこっちへ来て座らないか?」
憤慨する私に、タカミさんは澄ました顔でそう言ってくる。見ればタカミさんはお店の前の花壇のレンガに腰を掛けていた。
「ほらおいで。立ち仕事なんだから休めるときに休んでおきなよ。……それとも俺といるのは嫌か?」
「っそんなわけないじゃないですか、タカミさんは大事なお客様ですしっ」
「…………大事なお客様」
「もちろんです!ひばり舎の珈琲を大事にして愉しみにご愛飲くださる、大切なお客さまです!」
私がそう言い放った途端、またタカミさんは困ったような、それを誤魔化すような不思議な笑みを浮かべる。その表情の意味を考えるより先にタカミさんに手招きされて、私は大人しくタカミさんの隣に腰を下ろした。
子供のいたずらのようにお店から締め出されてしまったことは腹立たしいけれど、きっと山田さんたちもちょっとすれば気が済んで中に入れてくれるだろうし、それに何より一緒にいるのがタカミさんなら気まずい雰囲気にならずにいられると思ったからだ。