婚約はとろけるような嘘と一緒に
「起業を決めたのは自分だから後悔はない。けれどこうもトントン拍子に上手くいきすぎると、今自分が手にしているものももしかしたら一瞬で失うことになるのかもしれないって思えて時折ぞっとすることがあるよ。
仕事を始めたときはちゃんと軌道に乗せることが出来るのかが気掛かりでしょうがなかったのに、上手くいったらいったで今度は成功して自分が多くを手にした分だけ、いつかそれを失うのが怖くなるんだ」
(たとえ上手くいってても、成功者は成功者の苦悩があるんだ……)
タカミさんの話を聞きながら、頭の中に思い浮かんだのはお父さんの顔だった。
お父さんはいつも強引で独善的でなんでもかんでも自分の思い通りにしないと気が済まない人だけど、私がお父さんに言えずにいることがたくさんあるように、経営者という重圧のある立場にいるお父さんも決して家族には漏らすことが出来ない不安や不満をひそかに胸に抱えているのかもしれない。
そんなことに急に気付かされる。
「不安に駆られてますます仕事に没頭していっても、むしろ成功事例がひとつ増える度に不安は嵩を増すばかりでね。もういっそ事務所も仕事も仲間も、何もかもを失わない限り、『いつかすべてを失うかもしれない』という恐怖心から解放されて楽になれることは永遠にないのかもしれないな。
………仕事には自負もやりがいも感じているはずなのに、ふと終わりのないレースを続けているようでしんどくなることがある。そういうとき、自分がひとつひとつ築き上げてきたはずの足元がいかに脆いものかを痛感させられるよ」
私なんて、会社ではいかに就業中に居眠りをせずにいられるかを考えているだけのだめ社員だ。こんな高い意識で仕事をしているタカミさんに返せる言葉なんかなくて、ただ黙っていることしか出来なかった。
でも今の話をちゃんと聞き入れたことを、タカミさんを見つめる目で伝える。私の視線を受け止めたタカミさんは、ちいさく息を飲むと少し恥ずかしそうに俯いた。
「………すまない、かなり聞き苦しいことを言った」
「いえ………そんな……」
まるで弱音を吐露した恥ずかしさを誤魔化すかのように素早くマグカップに口を付けると、タカミさんはカップの白い水面を見つめて呟いた。
「このミルクには、何か入れてあるのかな?……この香りは………ラム?」
「あ、はい。……タカミさんの頭痛は身体を温めたり、お酒飲んで血流良くした方が収まるって涼子さんに教えてもらって……それでミルクの温まり際にお店にあったラム酒をすこし垂らしてみたんです。牛乳の臭みも取れていいかなと思ったんですけど………お口に合いますか?」
タカミさんはもう一口二口と続けて口を付けて、表情を緩めた。