婚約はとろけるような嘘と一緒に
「それは勿論、いいことはいろいろあったよ」
「例えば?どんなことがあったんです?」
「佐千代さんも知っての通り、村田さんのところも川崎さんのところも、先月は集客率が20%アップしたというし、河田の道の駅の改装も評判は上々、ミツミとタカミフーズのコンセプトショップも無事着工して、南くんの店の売り上げは3ヶ月連続で目標の120%達成したと連絡があったじゃないか」
「………私は仕事のことを聞いてるじゃなかったんですけどねぇ」
佐千代さんは少々もの言いたそうな顔をするものの、それ以上は突っ込まずに引き下がってくれた。調子がいい理由は、今はまだ自分だけの胸の中にしまっておきたいと思っていたから、ほっと息を吐く。
時刻は間もなく正午。所員たちも皆、仕事は片付きつつあるように見えた。
「皆、悪いが今日はもう先に帰らせてもらってもいいか?」
「ああ、高見なんてさっさと帰れ帰れ。所長のおまえにいつまでも残られちゃ、下々の俺たちが帰り辛いからな」
いつも真っ先に退社していく宇田川の言葉に、20代コンビも佐千代さんも物言いたげな目をして宇田川を見るけれど、宇田川はそんなことを気にするような男ではではない。こいつの図太さはときどき本気で羨ましくなるななどと考えながら、理人は財布から何枚かお札を抜き取って佐千代さんのデスクの上に置いた。
「佐千代さんも武田も今井も、よかったらこれで昼飯でも食べてくれ。みんないつも休みが少なくて悪いな」
「まあ。いいんですよ、所長。いつもお気遣いありがとうございます。有難く頂戴いたしますね」
機嫌を持ち直した佐千代に安堵して帰り支度を始めると、またもや宇田川が意味ありげな顔をして近付いてくる。
「なんだ?まだ何かあるのか」
「そう邪険にするなよ。どうせおまえ、また今日も『あの子』のお店に行くんだろ?」
「宇田川さん、あの子って誰なんですか?」
「お店の子って、もしかしてキャバ嬢とかですか?」
「あー、ダメダメ。君たち、そういうこと聞かないの。人のガチな恋路を邪魔したら死ぬよ、高見に蹴り殺される」
宇田川の発した言葉に心底驚いたような顔をして若者コンビが理人を見てくる。
「所長、抜け駆けなんてひどいです。いつの間に恋人作ったんですか」
「独身主義で特定の相手はいらないんだとばかり思ってたのに。いったいどこで知り合ったんですか?最近ほとんど休みらしい休みなんてなかったはずなのに」
「こらこら若造ども。高見はマジな感じだから、今はそおっとしといてあげてよ。40前の最後の恋愛、最後の婚期かもしれないんだし」
途端に若い二人は「最後の恋愛かぁ」「結婚か」とどこかふわふわした目つきになる。でも今は若者ふたりのツッコミより、佐千代さんのジト目が怖かった。
「高見所長にそんなお相手がいらっしゃるなんて、私はちっとも知りませんでしたよ」
「……いや、まだ佐千代さんに報告できるようなことは何もないよ」
「本当ですか?また私一人だけ除け者にしてらっしゃるんじゃありません?」
チクリと刺してくる佐千代さんをどうにかこうにか宥めて、自宅マンションのある駅まで帰ってくる頃には昼食を摂るには半端な時刻になっていた。