婚約はとろけるような嘘と一緒に




改札を出てすぐ目の前にある自宅マンションを通り過ぎて、駅前の商店街の方へ歩いて行く。向かう『ひばり舎』は、この商店街中手の裏道にあった。

「よ!高見くん」

メイン通りを日も明るいうちに歩けば、見知った顔にも行きあたる。声を掛けてきたのはひばり舎の常連の『ヤマ青果店』の店長である山田さんだ。

「その恰好は仕事してきたとこかい?世間は土曜休みだってのにおつかれさん」
「山田さんもお疲れ様です。仕事は午前中で切り上げてきたところなんですよ」
「今からひばり舎行くんだろ?運がいいねぇ、今日は土曜だけど珍しくひよ子ちゃんが出勤してるんだよ」

それは既に昨晩彼女本人に確認してあったことで、だからこそ自宅にも寄らずにまっすぐ向かっていた。

「よかったねぇ、高見くんは珈琲よりひよ子ちゃんが目当てなんだろ?」

遠慮なく突っ込んでくるから曖昧に笑ってその場を去ろうとすると、山田店長が店先に並んであった何かを掴んで追い掛けてきた。

「待った待った。よかったらこれ、ちょっと熟してきちゃって売り物になんねぇから、ひよ子ちゃんに持って行ってあげてよ」

店長の手の中にあるのは少々小ぶりだけど形のいい桃だ。強引に押し付けるように手渡されて思わず受け取ってしまったけれど、桃の実は熟すどころかまだ食べるには早そうなしっかりとした感触をしている。

「山田さん、どう見ても痛んでるようには見えませんよ。これは大事な売り物なんでしょう?」
「あー、でも高見くんが手土産に持っていってやったら、ひよ子ちゃん絶対喜ぶよ?あの子、桃が好物なんだ。この前もウチで買って行ってくれてね。高見くんもあの子の喜ぶ顔見たいだろ?」

山田店長がお節介なのは、あくまで好意なのだと分かっている。

(けど困ったものだな。理由もないのにこんなあからさまな贈り物をするなんて………)

いきなり渡しても彼女を困らせるだけのような気もするし、喜ばれるどころか最悪気持ち悪がられることもありえる。どうしたものかと思案しているうちに、山田店長は空いてる方の手にももうひとつ桃を渡してくる。

「頼むよ。この商店街で生まれる恋を見守るのも、俺たち『三ツ星商店街組合』の使命みたいなもんだからさあ。たかだか桃の一つや二つだけど、本当に縁のある相手ならこんなものがきっかけでも上手くいくようになってるもんさ。だから、な?」

拝み倒すように言われて、観念して受け取ることを決めると、財布を取り出して店先の台の上に置いた。

「おいおい、高見くん、こっちが勝手に押し付けたんだし、お代はいいって」
「いえ、実は今ちょっと“いいこと”を思い付いたので」
「いいこと?」
「はい。だからまたいい果物が入ったらよろしくお願いします」

そういって軽く会釈して歩きはじめると、山田店長の大きな声が追い掛けてくる。

「おう、任せとけ。ひよ子ちゃんの果物の好みだけは熟知してるからさ!だから高見くんも他のヘンな男に盗られる前に、さっさとひよ子ちゃん口説いちゃえよ!?」


自分に向けられた山田店長の言葉も、周囲の視線も、意識すれば羞恥にみまわれると分かっていたから、何も気付いていないフリを決め込んで振り返りもせずに理人はひたすら足を進めていった。

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