婚約はとろけるような嘘と一緒に



『メンテナンス中。珈琲以外は出せます』



ようやく辿り着いたその店の前には、そっけない文字で書かれた紙が貼り出されていた。それはマスターの涼子さんが私用で少々外出していることを示す文言だ。

「こんにちは」
「いらっしゃいませ。……あ、タカミさん」

店に入ると、いつもと変わらないエプロン姿の彼女がすぐに出迎えてくれる。

他のお客さんに向けるよりも笑顔がやさしい気がするのは多分自分の欲目なんだろうけど、昨日あれだけみっともないことを言った自分に変わらない態度で接してくれることがうれしかった。

「今日は頭痛、大丈夫ですか?」
「お蔭さまで。午前中仕事をしてきた帰りだから、おいしい珈琲で一息つきたくてね」
「ミルクじゃなくていいんですか?」
「ああ、その選択肢も捨て難いな」

2人でちいさく笑い合うと、それだけで胸の底がこそばゆくなる。

「涼子さんは出払ってるみたいだね。今日は珈琲諦めた方がいいのかな?」
「いえ、もうじき帰ってくる予定なんですけど………」
「ああそうだ。これ、貰ってくれないか」

手に持っていたそれを2つ差し出すと、彼女は目を丸くする。

「え………桃、ですか」
「山田さんとこの売り上げノルマに貢献してきたんだ。これが今の時期のいちばんのおすすめなんだって。よかったら持って帰って食べて」
「ヤマ青果店にノルマってあったんですか」
「さあ?もしかしたらあのしっかり者の奥さんに、厳しい売り上げノルマを課せられるのかもしれないね」

その冗談にちいさく笑うと、彼女は桃を見て口元を緩ませる。

「いい香りでおいしそう。……桃ってなんか形もかわいいですよね。私実は子供の頃から大好きなんです」
「そうなんだ。よかったら涼子さんと1個ずつ分けて」
「でもこんな立派な桃、いただくのは申し訳ないです。……タカミさんは桃、お嫌いなんですか?」

必ず聞かれるはずだと思っていた質問が思った通り彼女の口から出てきたので、思わず口元が緩みそうになる。だから表情を崩さないように努めて淡々と答えた。

「いや、むしろ俺も好物だよ?桃は甘味が濃くて果物の中では一番好きかもな。………だけど恥ずかしい話、普段台所に立つことがないから果物に包丁を入れることも出来なくてね。だから代わりに君と涼子さんでおいしく食べてくれると助かるよ」


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