婚約はとろけるような嘘と一緒に
本当は果物はほとんど食べないし、桃は特に好きだとも嫌いだとも思ったことはない。だけどささやかな企みがあって好物であるフリをすると、彼女はいくらか迷った後にためらいがちに聞いてくる。
「あの………じゃあよかったら私、これ剥いてきましょうか?」
その言葉に、思わず笑みがこぼれそうになる。
「でもそれは悪いだろ」
「いえ、皮を剥くくらいならお安い御用です。私もそんなにきれいに剥けるわけじゃないんですけど、よかったら今キッチンで切ってきますよ。折角山田さんのおすすめなんですから高見さんも食べなきゃ」
「そうか?じゃあお願いしようかな」
本当ははじめからそう望んでいたことなのに、しれっと言うと彼女はにっこり笑う。
「はい、かしこまりました」
カウンター席にいるお陰で、キッチンに立つ彼女の後姿がよく見える。手元で包丁がなめらかに動く度に、まるで彼女の身体から甘い芳香が放たれているかのようにひばり舎の店内に甘い匂いが満ちていく。
我ながら小賢しいことをしたと思うけれど、エプロンをしている彼女が果物を丁寧に剥いていく姿を見ていると、ひどく満ち足りた気分になってくる。このままずっと彼女の後姿を眺めていることが出来たら、それはどんな休日の過ごし方にも勝る癒しを与えてくれる気がする。
(結局男ってものは、世話を焼いてもらえることに心地よさを覚えるように出来ているんだろうな)
たとえ桃ひとつを剥く程度のことだとしても『彼女が自分のためだけにしてくれたこと』だと思うと、胸に幸福な気持ちが沸いてくる。
「どうぞ、お待たせ致しました」
彼女が切り分けた桃はかたちもきれいにちいさな器に納まっている。お礼を述べて早速一口含むと、まだ食べごろには少し早かったようだけど、噛むたびに桃はその果肉から濃厚な甘い果汁をあふれさせる。
(桃って、こんなうまいものだったかな)
やわらかな果肉を咀嚼して一口一口堪能していると、不意に背後から手が伸びてきた。
「俺にも一切れ頂戴よ」
入店してきたばかりの花屋の吾郎さんで、一口食べるなりにやりと笑顔になる。
「これ山ちゃんとこの桃なんだっけ?まだすこし固いけど、いい味してんね。それにひよちゃん、意外に包丁こなれてんだ?あんたきっといいお嫁さんになれるよ」
「えっ……そうだといいんですけど……」
彼女は困ったように苦笑する。口元から八重歯をちらりと覗かせるその顔を見てはっきりと思った。
(かわいい子だな)
それは好意よりももっと明確な、愛おしいという感情だった。ただその人といるだけで、ごく些細なことにでも幸せを感じることが出来るこの現象を、なんと名付けるのかは知っている。
(悪あがきをしてもしょうがない………俺は彼女に惚れてしまっているんだろうな)
そう認めることは、理人にただただ甘酸っぱい感傷を与える。