婚約はとろけるような嘘と一緒に
「タカミさん?今日は何かいいことがあったんですか?」
「いや、久しぶりに好物の桃が食べられたことがうれしくてね」
意図を持ってにっこり笑いかけると、正面からその表情を受け止めた彼女はやはり耳朶を赤くする。
「………それはよかったです」
「ああ、ありがとう」
今はまだミルクを淹れて貰ったり、桃を切り分けて貰ったりすることだけでも十分“特別待遇”だと思えて満足してしまえるけれど、いずれ贅沢を覚えた心はもっと彼女のことを知りたがり、もっと一緒に過ごす時間を求めるはずだ。
それはここ数年仕事一筋で生きてきた理人にとって厄介な感情ではあったけれど、同時に手放し難いほどに心地よく温かな感情でもあった。
「そういえばタカミさん。あれから私、考えてみたんですけど」
桃の最後の一切れを口に運ぼうとすると、彼女が改まった顔をして言ってくる。
「昨日はタカミさんみたいな方でも悩まれるんだなあって、お話聞いてちょっとびっくりしてたんですけど………でもきっとタカミさんは大丈夫ですよ」
「………うん?」
「だってビジネスの世界だと、『最悪のミスは仕事が上手くいっていないときではなくて、上手くいっているときにこそ起こる』って言うらしいんです。事務所がとても上手くいっている今も、タカミさんは慢心しないでそれをちゃんと心得ているんですから。だからタカミさんは大失敗なんてしません。きっとこれからもずっと上手くいきます」
話を聞いてくれているときはただただ静かに耳を傾けてくれていた彼女は、あの後自分に掛ける言葉を考えてくれていたらしい。昨日のあのどうしようもない弱音を気に掛けててくれたのかと思うと、じわりと胸の温度がまた上昇していく。
「あ、ごめんなさい、私、何も分かってないくせに、こんな偉そうなこと言って……」
「今の君の言葉、確かトーマス・ジョン・ワトソンの名言だったかな?」
「トーマス………?ごめんなさい、えっと、実はずっと前に聞いた父の受け売りなんです。だから誰の格言なのかは分からなくて……」
「彼はかの超一流企業、IBMの創立者だよ。世界恐慌にも揺らがない経営スタイルを確立して、IBMを世界的大企業に育てあげたビジネス界の偉人だ。……そんな人物を引き合いに出されると面映ゆいのを通り越して申し訳ない気分になってくるな」
軽口を叩きながらも、顔がしまりなくにやけそうになっていた。
こちらを気遣ってくれる彼女からは、言葉の意味以上に伝わってくるものがあった。出来ることならこんな子を自分の傍に置いておきたい。いつでも手を伸ばしてかまえる場所に捕まえておきたい。
「………でもけじめをつけてからのほうがいいか」
「え?」