婚約はとろけるような嘘と一緒に
出会いの前触れ
◆珈琲店のフォルトゥナ◆
1 ◆ 珈琲店のフォルトゥナ
『こんな子供の道楽に払う金があるとでも思うのか?』
一杯の珈琲と、罵声を浴びせられて怯えた目で佇む一人の少女。
いくら虫の居所が悪かったとはいえ、涙を堪えている幼い彼女にあのとき自分はあまりにもひどいことを言った。今でも珈琲の香りがするたびに思い出される、自分が未熟だったがゆえのほろ苦い記憶だ。
◆
「お待たせいたしました、『本日のマスターのおすすめの一杯』です!」
弾んだ声と共に目の前に陶器のカップをコトリと置かれて、物思いに耽っていた理人の意識が過去から珈琲ショップのカウンターの上へ戻ってくる。
ここは東京の片隅にある『ひばり舎』という珈琲店。目立たない裏路地にあり看板すら出していない商売っ気のない店だけど、珈琲通にはよく知られた店らしく、いつ来ても狭い店内にはマスターの美貌と彼女の淹れた珈琲に惚れ込んだ客たちの姿があった。
「どうしたんですか、タカミさん?」
カウンター越しに顔を覗き込んで話しかけてきてくれたのはそのマスターではなく、この店の看板娘の方だ。所作のひとつひとつにそこはかとなく色香の漂うマスターと比べると特別美人というわけでもないけれど、人懐っこそうな目と笑うと口元から覗く八重歯が印象的な子だ。
ふっくらとした張りのある頬や立ち振る舞いから見るに、おそらく年齢は自分よりもかなり年下の二十歳くらい。彼女は見習いの雛(ひよっこ)店員であることを揶揄されて、常連客達から「ひよちゃん」や「ひよ子」と愛称で呼ばれていた。
でも本名は知らない。
老いも若きも彼女から名前を聞き出そうとする輩は多いようだけれど、隙が多そうなほわんとした雰囲気とは裏腹に彼女のガードは思いのほか固く、噂によるとマスターである涼子さんだけしか彼女の名前は知らないらしい。
「タカミさん?お疲れですか?なにか難しい顔をされているようですけど……?」
「いや、ちょっと昔のことを思い出していただけだよ。それより今日の珈琲は何?ご教示願えるかな」
そう水を向けた途端、彼女の顔がぱあっといっそう明るくなる。
「はい、喜んで!」