婚約はとろけるような嘘と一緒に
「いえ、こちらこそすみませんっ。私からぶつかってしまって」
慣れない着物を着ているからよろめいても上手く動けずにいる私に、彼女は手を差し出してくれる。
「そのお衣裳だと立ち上がるのも大変でしょう?」
「あ。………ありがとうございます」
正面から見て改めて思う。なんて素敵な人なんだろう。華奢できれいな手。しかも爪の先までぴかぴかで、同性の私でもどきどきしてしまう。
「あらいけないわ、ちょっと待っててね」
何かに気付いたのか、彼女は私の背後に回って手を伸ばした。
「ぶつかった拍子に髪が乱れてしまったみたい。ちょっと直してあげる」
「あ、でもそんな、悪いです」
「折角素敵なお着物が似合っているのだから、直さないと勿体ないわ。今日はあなたにとって特別な日なんでしょう?私はそういう日を応援するお仕事をさせていただいているから任せて。……これで大丈夫よ」
そういって微笑む彼女からふわりとやさしくて甘い香りが漂ってきた。美人っていうのはいい匂いまでするみたいだ。
「本当にありがとうございます」
「いいえ。……あなたにとって今日が素敵な一日になりますように」
彼女はにっこり笑うと、颯爽とした足さばきで去っていく。なんてきれいな人なんだろう。久野さんが駆けつけてくるまで、私はその場でぼおっとその背中に見惚れてしまった。
「おお、ひよりか。見られるようになったじゃないか」
振り袖姿でやってきた私を見て、お父さんは満足そうに頷く。
せめてお世辞でも「きれい」ぐらい言ってくださいと思ったけれど、お母さんにベタ惚れのくせに人前で「うちの愚妻が愚妻が」とひたすら貶してばかりの人が、わたしのことを褒めてくれるわけがなかった。
「よしよし、約束どおり美味いものを食わせてやるからな。おまえの好きな天ぷらのあるコースにしておいたぞ」
本当にただのランチだけならどんなによかったことか。