婚約はとろけるような嘘と一緒に
今日はお母さんが泊りがけで地元の同窓会に行っているから、土曜日恒例の『実家で家族団欒』は中止で、久々に自由な時間を過ごせるはずだった。
朝からひばり舎に出勤して涼子さんのテクニックをたっぷり拝むつもりだったのに、こんな無意味な会食に潰されなきゃならないなんて無念でならなかった。
(タカミさんにも出勤するって、昨日伝えたのに……)
顔なじみの常連客さんのことを思い浮かべた途端、どうにか早く切り上げて夕方からでも出勤出来ないかと気持ちが急いてくる。
ただでさえ平日の退社してからの短い時間しかひばり舎に勤務していない私は、他のお客様から「もっと働きなよ」と怠け者みたいに言われることがあるのに、タカミさんにまで平気で欠勤するいい加減な奴だとは思われたくなかった。
ひばり舎に通う人はみんな涼子さんのファンであり涼子さんのお客様だけど、あの人はいつか私の淹れた珈琲をいちばんに飲むと約束してくれた、今の私の唯一のお客様であり大切な人だ。
父のお膳立てした茶番じみた会食なんかよりも、ひばり舎に行くことの方が私にとって何百倍も大事なことだ。こうなったらお見合いの相手と結託してでも、この会食をとっとと終わらせるしかない。
密かにそんな決意をしていると、父が突然立ち上がりご機嫌な声で私に囁いてくる。
「立てひより。ほら見ろ、おまえの夫になる男が来たぞ」
相手の人にも選ぶ権利はあるだろうにと同情しながら私も立ち上がると、颯爽と歩み寄って来た人が私たちの前に立った。
「お待たせしました」
滑舌のはっきりした、でもどこか耳に柔らかく不思議と既視感を覚える声。おずおずと私や父よりずっと背の高い相手を見上げて、途端にひっと息を飲みそうになった。
私の目の前にいるのは背も腰の位置も高い男の人。私より年上で、おそらく30代。
ノットの形がきれいに整ったネクタイの結び方や、すっと背筋の伸びた立ち姿にストイックな雰囲気があって、一見浮ついたところはなさそうに見える。
でもすこしだけラフに流した毛先ややさしげに笑む口元には隠しきれない色香が滲み、お見合いに引っ張り出されたと言うのに全然気負った様子のない堂々としたその表情には大人の余裕を感じる。
スーツ姿がひどく様になっている、見るからにハイクラスそうな人。
もし彼が「結婚相手を探している」などと一言漏らせば、山のような数の女の子たちが立候補に名乗りをあげるに違いない。
まさか私の想像の遥か上を行っているこの人が、父が見つけて来た私のお見合い相手なんだろうか。だとしたらあまりにも不釣合いすぎて自分が恥ずかしい。恥ずかしすぎていたたまれない。
こういういかにもモテそうで何不自由していなそうな華やかなイケメンは、一緒にいるとコンプレックスが刺激されてしまうから思わず及び腰になってしまうほど私が苦手なタイプだった。