婚約はとろけるような嘘と一緒に
◆待ち人来たりて◆
◆待ち人来たりて◆
「おまえもとうとう本気で嫁取りに来たか」
待ち人が来るまでアーチ状が美しいロビーの天井を見るともなしに眺めていると、不意に声を掛けられる。見れば今日の“会食”のお相手ではなく、上機嫌な顔をした実兄が隣のソファに腰かけてくるところだった。
「誰が何に本気だって?勝手に今日の見合いを仕組んだのはあんただろう」
理人は兄の透馬のにやけた顔を睨み付けてやるが、透馬は理人の普段よりもきっちりと整えられた頭から鏡面のように磨き上げられた革靴の先まで眺め下すと、いっそう笑みを深めた。
「まあ落ち着けよ。俺はただ、我が弟ながら今日は実に趣味のいいスーツを着ているなと思っただけだよ。うちの頭の固い役員連中の鼠色のスーツとは大違いできれいな色だ。若い女の子をモノにするための勝負服だとしたら上出来じゃないか」
「だからこっちは結婚相手を探してくれなんて一言も頼んでいない」
理人は普段仕事でもスーツを着ることよりラフなジャケット姿でいることが多いが、今日選んだのはシルエットがクラシカルな上品な三つ揃えだ。
生地は華やかでありながら品を損なわない涼し気なブルーグレイで、クリーム色のネクタイを合わせのは春という季節感を意識したのと、眼鏡を外すと顔立ちがきつく見られることがあるので顔の印象を柔らかく見せるためだった。
「けど嫌がるような顔をしていたわりに随分気合の入った恰好じゃないか。三美のご令嬢にもおまえの中身ごと気に入ってもらえるといいな」
兄はにやりと人の悪い笑みを寄越してくる。この上もなく兄が今日のお見合いを面白がっていることに気付いて、舌を打ちたくなった。
生憎今日着ている他所行きのスーツは今日の日のためにではなく、来月招待されているフレンチレストランのレセプションパーティに着ていくために用意しておいたものだ。
飲食業界の関係者が招かれている場で自分を売り込むために身なりに気遣うのは基本中の基本のことなので、馴染みのテーラーに「悪目立ちはしないけれど、印象に残るものを」と難題を吹っ掛けて仕立ててもらった。配色やデザインを気に入ったのは勿論のこと、堅苦しいスーツを苦手にしている理人も既製品と違って体型にしっくり馴染む出来栄えに十分に満足していた。
「気合いなんて入るものか。昔仕立てたスーツはもう似合わなくなっていたから、たまたま新調したばかりだっただけだ」
「一張羅なのか?おまえは相変わらずの自由業気質だな。いくらスーツを着なくて済む職場だろうと、いっぱしの社会人の男ならスーツは何着でも持っておかないと。ビジネスの世界では女性以上に男は着ているもので値踏みされるものなんだから、身だしなみに財力と気をつかうのは上手く世渡りしていくための男の最低限の処世術でありマナーだ、わかるだろう?」
「………わかったわかった、頼むから親父と同じ顔で親父が言いそうな説教を垂れないでくれ。それよりなんであんたがここにいるんだ」
鬱陶しがる理人に、兄の透馬はしれっと言い放つ。