婚約はとろけるような嘘と一緒に

彼女は名前を明かさないこと以外にも謎の多い存在で、店は早朝から開店しているというのに出勤してくるのは大抵平日の18時過ぎからラストまでのたった3,4時間ほどの短い時間だけ。ひばり舎の従業員は涼子さんともう一人の大学生アルバイトの布施くんしかいなくてとても人手が足りているようには見えないけれど、彼女は土日も滅多に出勤してこない。

だから常連客の中には「この店はスペシャリティコーヒーより、ひよ子と会えることの方がプレミアものだよな」と揶揄する者までいる。皮肉を言ってでもこの愛嬌のある看板娘にはもうすこし店にいてもらいたいと思っているファンがいるということだ。


「今日はですね、先月も飲んで頂いたインドネシアのスマトラ島原産のマンデリンのブルーバタックという豆を使っています。マンデリン特有の花のような香りとなめらかな舌触りを感じつつ、とても重厚な苦味とコクもたのしんでいただける一杯になっているかと思います。
マンデリンの中でも特に上質なブルーバタックのどっしりとした油分と繊細な甘味をそのまま味わっていただくために、今日は涼子さん、ペーパードリップじゃなくてステンレスのフィルターで淹れているんですよ。個人的には抜群のチョイスだと思っているんですけど、いかがですか、タカミさん?」

「たしかにブルーバタックは先月もごちそうになったな………でもそういえばこの前飲んだときより濃いというか……後味が重たい?これはシティロースト?淹れ方だけじゃなくて、前回と珈琲豆の焙煎の仕方も変えたのかな?」

ほんとうは先月飲んだ珈琲の味なんてたいして覚えていなかったし、珈琲は蘊蓄を語るよりもただ味だけを楽しみたい人間だ。けれど珈琲通を気取ってさして意味も分かっていない聞きかじり言葉を立て並べると、彼女はますますうれしそうな顔をしてくれる。

だからその顔見たさに、今日も彼女に珈琲の話を振っていた。


「うれしいなぁ。さすがタカミさん、わかります?前はミディアムローストで爽やかな酸味が出るように焙煎してあったんです。その方がすっきりとした飲み口で軽さはあると思うんですが、今日はおっしゃる通り、フルの一歩手前くらいまでじっくり中煎りにしたものを使っているんですよ」
「ああ、確か俺は前回『飲みやすいけどすこし物足らない味』って言ったよな。なるほど、今日の方が濃厚で大人向けの味に仕上がっているわけだ?」


答え合わせを求めるように尋ねれば、彼女の笑みが深くなる。そのことに満足しながらもう一口カップに口を付ける。


「タカミさん、今日の一杯はお気に召してもらえましたか?」
「………ああ、気に入ったよ。とてもね」

それが珈琲のことだけを言っているわけではないとおそらく彼女は気付かないだろうから、ここで彼女の目をじっと見て笑みを投げかけてみる。

すると珈琲談義に夢中になっていたはずの彼女は急に顔を赤らめてぱっと視線を逸らしてしまった。そんな初々しい反応をする彼女を見ていると口元がだらしなく緩んでいくから、隠すように慌ててカップを口元に引き寄せた。


彼女は気になると言えば気になる存在だ。

< 5 / 49 >

この作品のキーワード

この作品をシェア

pagetop