婚約はとろけるような嘘と一緒に

実はそれほど珈琲の種類や味の違いに興味があるわけではなく、彼女が熱心に説明してくれていることも専門用語が多すぎて半分も理解出来ていない。

珈琲だって今はわざわざ専門店にこなくても、もっと手軽にそこそこのクオリティのものを提供しているコンビニも家庭用のマシーンもある。

それでもつい仕事の合間や帰りにひばり舎に寄って給仕をしてくれる彼女と会話を楽しもうとするのは、「美味しい珈琲を淹れるようになること」にどこまでも純粋でひたむきな彼女を見ているのが愉しいからだ。

そんな彼女がどうして短い時間しか勤務しないのか、日中はいったい何をして過ごしているのか、近頃はそんなことに興味をそそられていて、店員と客という関係ではなくもうすこし彼女と親しくなりたいと思っていた。

でもそれは若い頃のように気になる女の子をとりあえずオトしてしまいたい、ベッドで一戦交えてみたいという不埒な気持ちなどではなく、純粋に一経営者として彼女のような職業意識の高そうな子ともっと話がしてみたいという願望だった。

そんな感情を持って店に通うものだから、目は無意識に彼女の姿を追ってしまっているらしく、馴染みの客からは「高見くんみたいな男もやっぱりひよ子みたいな若い子が好みなのかい?」と冷やかされたり、「高見さんが口説けばひよちゃんも思わず本名をぽろっと喋っちゃうんじゃないかい?」とけしかけられてばかりだった。

いつもいつも顔なじみの客たちからそんな期待と好奇心が籠った目でニヤニヤ見られているので、彼女に連絡先を伝えたいという思いはありつつもどうにも彼女に声を掛けられずにいた。


(今はまだ機じゃないということだろう。彼女と親しくなるチャンスはいずれ見付ければいい)


今はただこの一杯を楽しめばいいのだと、魅惑的な琥珀色の液体に口を付ける。途端に鼻を抜けていく馥郁たる香りに、仕事のことが引っ掛かったままだった心がゆったりと解放されていく。

彼女が運んでくれる珈琲の香りの所為なのか、いつも明るい彼女の笑顔の所為なのか。

ひばり舎に来ると行き詰っているときも焦りを感じているときもそして迷っているときも、心が解きほぐされて力みがちだった両肩からは無駄な力が抜けていくのを感じる。仕事の重大な決断やひらめきは、こんなときによく生まれた。


頭に思い浮かんだのは、目下悩み続けていた大手企業からの商談だった。

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