婚約はとろけるような嘘と一緒に
(実力でもぎ取ったわけじゃない、お節介な兄貴が回してきた縁故の仕事には違いない。けど俺にとっても所員たちにとっても、ミツミ飲料とタカミフーズのタイアップ企画に参加できれば確実にステップアップになる。初めて請け負うタイプの仕事だけど、やっぱり腹を括ってあの依頼は受けるべきだな)
最前まで二の足を踏んでいたことが嘘のように、その決意が胸に固まっていく。
思えばこの店に通うようになってから仕事はすこぶる好調だ。もしかしたら彼女は自分にとって幸運の女神なのかもしれない。そう思った途端、面白がっている周囲の目が急にどうでもよくなった。今日こそ彼女に誘いを掛けよう。
機であることを感じて、プライベートの番号が入った方の名刺を取り出そうと懐に手を差し込んだとき。
「ひよちゃーん。いつまでも高見くんに独占されてないで、こっちにブレンドのおかわり頂戴」
「あ、はいっ、ただいまお持ちしますっ」
「ついでにまきば屋のドーナツも出してよ」
「少々お待ちください!!」
あと一歩のところで彼女は呼ばれ「それではタカミさん、どうぞごゆっくり」の言葉を残して去って行ってしまう。目は彼女の背を未練がましく追う。
「………後ろ髪はあっても、捕まえられないこともある、か」
長い髪を揺らし手の中をすり抜けて行った女神に苦笑いする。
惚れているわけではない。だいたい恋愛対象にするには彼女は若すぎるし、彼女にしても40歳へのカウントが始まった自分になぞ興味はないはずだ。
------若い女の子に鼻の下を伸ばしてるわけじゃない。ただ職業人としての彼女のことが気になっているだけだ。
胸の中で意味のない言いわけをすると、理人は舌先に甘い余韻を残す珈琲を飲み干した。