熱愛には程遠い、けど。
 給湯室でお湯を沸かしながら、さっきの平岡課長の言葉を思い出したら少しだけ顔がにやけてしまった。
 最近仲がいい、課長がそう言った通り、一緒に映画の試写会に行った日からぐっと宮下さんとの距離が縮まったように感じている。
 沸かしたお湯をポットに入れ、人数分の湯呑と急須、茶葉をおぼんの上に置いて行く。給湯室から会議室が離れているため向こうでお茶を淹れるためだ。
 今日は数が多い。ポットとおぼん別々に分けて持って行こう。
 準備をしているとガチャっと音を立てて給湯室の扉が開いて、一人の社員が中へと入ってきた。その人物を見て、お互いに驚きに一瞬言葉を失った。
「……あ、喉乾いたなと思って」
「そっか……よかったら、沸かしたお湯がまだ残っているから使って」
「うん」
 雅史さんだった。別れを告げに彼の自宅に行って以来、会社でも顔を合わすことがなかった。久しぶりに会った彼は、前より少し痩せたように見えた。
 立ち去ろうとポットに手をかけた時だった。「杏奈」そう名前を呼ばれて振り向いた瞬間、正面から抱きしめられた。
「ちょ……やめ……」
 付き合っている時は周りにバレないようにしていたと思う。社内で堂々と二人で並んで歩くことも会話することもなかったし、話しても偶然に会った時にこっそりとだけ。その彼がこんな大胆なことをするなんて。
「杏奈、ごめんこんなこと。でも俺やっぱり……」
 雅史さんの体が小さく震えているのが分かる。私はこの人を深く傷つけてしまったんだ。自分のことばかりで周りの気持ちをまったく考えていなかったことに今更ながら気づかされて、突き放すことができなかった。少しの沈黙が流れる。
「古川さ~ん、いる?」
 突然、知っている声が響いてきたと同時に給湯室の扉が開いた。

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