恋蛍~君の見ている風景~【恋蛍 side story】
「あんた、さっき奇跡は起きなかったと言ってたな」


「え……ああ、はい」


こくりと頷くと、シゲさんはびっくりするくらい優しい微笑みを空間に落としながら、


「これは、アルベルト・アインシュタインの言葉なんだけれども」


と、続けた。


人生にはふた通りの生き方しかない。


ひとつは奇跡など起こらないと思って生きること。


もうひとつは。


「あらゆるものが奇跡だと思って生きること。したがら、その手紙も」


とシゲさんに指差されて、「えっ」と反射的にコーヒーカップの横に置いた水色の封筒に視線を落とした。


「その手紙が、昨日でも明日でもなく、今日。あなたのもとへ届いたことも、ひとつの奇跡なんだべなあと。このジジイは思います」


コトン、とシゲさんの4点杖が床を叩く。


その音にあたしがハッとして顔を上げると同時に、シゲさんはドアハンドルをぐんと押し開いた。


カランと鈴が鳴り、外気と共に大粒の羽根雪が数枚店内に迷い込んで来た。


一歩外に足を踏み出し上空を見上げて、「おお、こりゃあいい」とシゲさんがわっはっはと笑うと、白くけぶった吐息が冬の空気に溶けて消えた。


「若者たちの進む道に幸あらんことを。今宵のこの瑞雪に願うとするべ」


では、とシゲさんはベレー帽をひょいと摘み上げ、ぽんと頭に乗せ直して帰って行った。


「ひ……宏子さん、あの」


あたしは原因不明の胸の高鳴りを必死に抑え、喉の奥に押し込めるようにしてごっくりと唾を飲み込んだ。

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