甘いささやきは社長室で
「真弓さん、いますか?」
その時、突然フロアの入り口から名前を呼ばれ、私はそちらを振り向いた。
「はい?私ですけど」
あまり聞き覚えのない声に、見ればそこにいたのは黒いスーツに身を包んだ男性。真っ黒な髪に黒縁の眼鏡が、賢そうで真面目な印象だ。
あれ、この人……たしか秘書課の課長、三木さんだ。
会議などで何度か見かけたことがある彼は秘書課をまとめる役割を担っていて、桐生社長ともかなり親しい間柄だと噂もよく耳にする。
そんな彼が私になんの用だろう、と席を立つと、三木さんは穏やかな笑顔で手招きをして私を廊下へ連れ出した。
「仕事前の忙しい時間にすみません。社長室まで来てもらえますか?桐生社長がお呼びですので」
「え!?」
しゃ、社長が!?
『桐生社長』というその言葉に、一瞬頭から離れかけていた昨夜の記憶がまたよみがえる。
けれど断ることはできずに、歩き出す彼に続くように社長室までの道のりを歩き出した。
ま、まずい……。
これは絶対昨日のことについての話だ。思えば私、フルネームで名乗ったし、向こうも知ってるふうな口ぶりだったし……あぁ、絶対叱られる。
叱られる、減給される。それならどんなにマシだろう。下手すればクビだってありえる。
そしたら今からまた就職活動?この半端な時期に?退職理由が『社長にクビにされた』だなんて、そんな女を雇う会社もないだろう。
ど、どうしよう……!!
顔にはまったく表れないものの、心の中では必死に思考をめぐらせ、嫌な未来を想像してしまう。