甘いささやきは社長室で
あなたは社長で、私は雇われている立場。
だから逆らえないし、従うしかない。キスだって、抱きしめられることだって、望んだわけじゃない。
社長相手だから、我慢していただけ。
「……仕事がありますので、失礼します」
感情なく言うと、私はその場を後にした。
そう。だから、私はそういう人間だから。
こちらを見ることなんてせずに、彼女の方を見つめていて。
適当に結婚したって、いつか愛が生まれるかもしれない。こんなところで間違ったことを選ぶより、有望な未来を選ぶべきだ。
そう、私がするべきことは、線を引くこと。
そして、彼を現実に戻すこと。
からかいから始まった、恋の錯覚に溺れてしまわないように。
『でも人を傷つけることや悪口を言わないところが、私はとっても好きなんです』
知ってる。
彼は、口が上手くて調子がよくて、だけど優しくてあたたかい人。
抱きしめる腕の強さも、唇の薄さも、熱いキスの感触も、会社を思う情熱も……全て知っているからこそ、甘えてはいけない。突き放さなければいけない。
彼には彼に、見合った道を歩いてほしい。
ひとり廊下を早足で歩きながら、涙をこらえる。
こぼしてはいけない、一筋でも、頬を伝わないように。
胸の奥が苦しい。
口の中には、彼の血の味がにじんだ。