甘いささやきは社長室で
世間は僕を『御曹司』と呼ぶ。
けれど、決して恵まれたことばかりではなかった。
忙しい父と、子供にあまり関心のなかった母。
幼い頃の一番大きな記憶は、ある日の夜に家を出ようとした母のコートの裾を握って引き留めた時のこと。
けれど母はそんな僕の手を叩いて、背を向け家を出て行った。
その時幼心に知った。家族といえど、無条件に愛を注げるわけではないのだと。
家政婦さんや父の職場の人に育てられる日々に不満はなかった。
むしろ、充分すぎるほどの教育や生活をさせてもらえて感謝している。
けれど、離婚後も度々目にしたのは父相手に『金をよこせ』と金の無心に来る母の姿。
僕のことなど見ていない、置いていった子供より自分のための金の方が大事、そんな母を見るうちに、物心ついた頃に僕は自分以外の人間が信用できなくなっていた。
それは今でもそう。
仕事として、友人として、信頼や託すことはできる。けれど、それ以上に近い存在として誰かに心を開くことができない。
だって、信じたっていつか手は離される。
終わってしまう。永遠なんてないから。
いつかまたあんな悲しい思いをするくらいなら、最初から関係なんて築かなければいい。