甘いささやきは社長室で
「おはよー」
私が社長室に戻ってきてから数分も経たないうちに、続いて桐生社長はやってきた。
「おはようございます。随分ごゆっくりだったようで」
「うん。ボヌール・竜宮のモーニングのメニューが変わったらしくてさ、そこのお嬢さんと朝ごはんがてら仕事の話をね」
鞄をデスクに置きながら、彼女を『婚約者』と言わないのは、わざわざ言いたくないのか、それとも私が知っている前提で話しているのか。
分からないけれどあえて触れることはせずに、私は淹れておいたコーヒーのカップを彼のデスクにそっと置いた。
「あ、コーヒー淹れてくれたんだ?ありがと、ちょうどマユちゃんが淹れたコーヒーが飲みたいと思ってたんだよねぇ」
「どういたしまして。今日も口が上手くていらっしゃるようで」
「口が上手いんじゃなくて本音だよー?」
そう笑いながら、彼は誰が淹れても大差のないインスタントのコーヒーを、ブラックのままひと口飲む。
匂いを嗅ぐように睫毛を伏せたその表情は、やはり綺麗だ。
……婚約者、ねぇ。
婚約者の彼女は、この人がこういう人だと知ったうえで了承しているのだろうか。
私だったら、こんなチャラチャラした男と結婚だなんて、親に土下座されても断る。
……まぁ、ほんの少し、優しかったり真面目なところもあるけどさ。そういう面を見て、彼女も結婚しようと思えたのだろうか。
桐生社長の意外な一面は、自分だけが知っているわけじゃない。
そう分かっていても、他の誰かも知っているのだと思うと、なぜかまた胸の奥がチクリとする。