チェロ弾きの上司。

帰宅後、晩ごはんを食べてから、いつものように楽器のケースを開けようとしたんだけど。

……弾く気にならない。

真木さんの冷たい口調が頭をよぎり、蔑む表情がちらつく。


胃の辺りがずっしりと重い。

どうすれば良かったんだろう。
どうすれば怒らせず、嫌われずにすんだんだろう。

……だめだめ。考えない。考えても仕方ないことは考えない。
憂鬱な気分はホルモンバランスのせい。

あたしは楽器ケースを開け、いつものように、ヴァイオリンを抱き締める。

一度手放したけど、やっぱりあなたを選んで良かった。
今まではそう思って心がときめいていたのに。

今日は、心が、しーん、としている。
あれ、おかしいな。


今までは、つらいことも、楽器を弾けば忘れられた。

それなのに、今日は全然集中できない。

この間の強烈な経験で、ヴァイオリンと真木さんとが結びついてしまっていて。

弾くと、真木さんのことを思い出してしまう。

……何てことだ。

……逃げ場が、ない。

上司とカルテットなんて、やるんじゃなかった。


その週末、あたしは数年ぶりに、楽器を弾かずに過ごした。


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