いつか孵る場所
「やっと下がり始めたか…」

学会の資料を作る前に気になったのでハルの電子カルテを見て透はボソッと呟いた。

胸を撫で下ろす。

「ふふっ…」

看護師長の河内が後ろを通る際に思わず笑みを洩らした。

「やはり気にされているのですね」

河内は高校生、大学生の2人の男の子のお母さんで肝っ玉母さんという感じだ。

透とは10歳ちょっとしか離れていないけれど、まるで保護者のように透と接する時がある。

「…気にしちゃ、悪いですか?」

透は後ろを向く。

「あら、やっと本心を言ってくださいましたね」

河内は満足そうに微笑む。

丁度、今、ここには二人しかいない。

「至先生から少しだけお聞きしましたけど…」

「あ~…」

透は兄のお喋りに頭を掻いてイライラする。

「透先生、今までの人生、自分で方向を示して歩いて来られたのでしょう?」

河内はまるで女神さまのように語り始める。

「ここで諦めたら今までのすべての事を全部否定するようなものです」

「えっ」

「自分のお気持ちに決して嘘はつかないでくださいね。透先生のその純粋なお気持ちは素晴らしいと思いますよ。20年…それだけ一途に愛される彼女は幸せだと思います」

「でも、20年、僕に彼女がいなかったかと言われたらそうじゃないけど」

「そういう彼女たちは透先生の心の中までいなかったでしょ?」

遠くから足音が聞こえる。

河内は声を小さくして

「とにかく彼女が退院したら透先生が時間を作って食事なり誘ってあげてくださいな。応援していますよ」

そう言って足音が聞こえる方向に目を向けた。
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