もう1度ラストチャンス
嫌なことから逃げてます。
「暑い……」
今年はいつまでたっても寒かったのに、5月の大型連休を過ぎた途端に、初夏の陽気になった。じっとしていたら心地よい気候も、動いていると汗が滲んで来る。5月の終わり、わたしは日差しの中、長い坂のてっぺん近くにある祖母を家を目指していた。
最後に祖母の家を訪ねたのは、いつだっただろう。お盆もお正月も、もう何年も顔を出してないのに、突然しばらく住ませて欲しいと頼んだわたしに、祖母は何も聞かずに「おいで」と言ってくれた。
坂道の途中で立ち止まり、何の気なしに後ろを振り返り、登ってきた道を見下ろした。
*
今年の仕事始めの日、わたしは当時付き合っていた男性に、「話がある」と呼び出された。
「俺の出向も3月で終わるし、涼美とこういう関係になって2年もたつから、はっきりさせておこうと思って」
「うん」
彼はわたしが勤める支社に出向していた本社の社員。2年の出向期間が終わり、4月には本社に戻るから、このままだと遠距離恋愛になってしまう。
「はっきりさせておこう」という彼の言葉に、わたしはピンク色の淡い期待を抱いて頷いた。けど、彼はとんでもないことを言ったのだ。
「自分が寂しいからって、2年も付き合わせて悪かったね。今までありがとう、これからは俺に気を遣わないで、涼美は自由にしたらいいから」
「は、い?……それはどういう意味?」
「お互い元の生活に戻る、ってことだな」
「ちょっと待って。元の生活って何?別れるってこと!?何の話し合いもなくそれ?だって2年も付き合ってきたのよ。わたし、会社を辞める覚悟だって……」
「えっ、辞める?何で?」
必死に捲し立てるわたしに、彼は本当に意味が分からないという表情でキョトンとしている。
「もしかして、辞めて俺について来るつもりだった?いや、それ無理だろ。俺、結婚してるし」
「へ……?」
「えっ?」
今、何て言った?「結婚してる」……?
「えぇーーー!」
「ってか、知らなかった?俺はてっきり分かってて関係持ってるんだと思ってたんだけど」
本気で驚いているわたしに、彼は気まずそうな顔をしてグラスの水を飲み干した。
「そんな……結婚してるなんて聞いてない」
「だから、わざわざ言わなくても知ってると思ってたんだって」
「結婚……いつ?」
「入社してすぐ。大学の1つ後輩、今は都内の化粧品メーカーで広報をしている」
聞いてないのに、妻のプロフィールをペラペラ喋る彼の顔を、呆然とテレビでも見ている気分で見ていた。嬉々と語る彼にとってわたしは、支社にいる間の退屈しのぎだったんだと、じわじわと自覚していた。
その後、どうやって帰宅したのか覚えていない……ことは全くなく、意外としっかりした足取りで、きっちり買い物もして帰宅した。ただし、夕食の材料より、普段買わないスイーツやスナック菓子を大量に買い込んで。
その週は黙々と仕事に取り組んだ。仕事をしている間だけは、余計なことを考えなくて済む。ようやく迎えた週末、3年先輩で、今は親友といえる同僚に彼との一切合切をぶち撒けた。
「本気で知らなかったの?」
呆れ顔の親友は、さらに知ってて付き合ってると思ってたと付け足した。
「だって、誰も教えてくれなかったじゃない」
「あいつが結婚したの早かったしね。周知の事実って感じだったし。結婚指輪してないのは、あいつ左利きでしょ。デザイン画を描く時に、あちこちに引っかかるから外してるって言ってたわ」
さすが彼と同期なだけあって、よく知っている。だったら教えてくれたら良かったのに。
「付き合ってるって……知ってたの?」
「隠してるつもりだっただろうけど、見てて分かりやすかったって」
「……」
「頑張って、後腐れなく別れなさい。慰めてあげるから」
「うん……」
「わたしは何があっても涼美を愛してるよ!」
彼が既婚者だと知っても、彼への愛情が消えた訳ではない。だけど奥さんから略奪するほど、肝も座ってない。その気がない彼に縋っても、わたしには何のメリットもないから、別れる方向に動いている。ただ親友に話を聞いて欲しかっただけ。ギュッと抱きしめてくれた親友の胸に、顔をすり寄せて甘えた。
親友と話し、ようやく現実を受け止める気になってきた週明けの月曜日。
さらに追い打ちをかけるようなことを、彼がやってくれたのだ。
「立原に会社を辞めてついて行くって言われてさぁ。ちょっと何回か食事に行っただけなのに、本気になられてもねぇ。結婚してるって言ってるのに、嫁と別れろってしつこくて」
彼がわたしとの関係を触れ回っていた。辞めてもいいと、確かに思っていた。けど、それは彼が独身だと信じていたから。先週話をした時、わたしはついて行くとも、奥さんと別れて欲しいとも言ってない。キチンと彼と別れると明言しなかった、わたしの落ち度もあるけど。
秘めたる関係をペラペラ喋る彼の話を、他のスタッフたちも全面的に信じているみたいではなかつた。けど課内で冷たい視線が突き刺さり、まさに針の筵に座らされているみたいだった。彼が本社に戻った後は、新しい自分になろうと決意しかけていた心は、ポッキリと折れた。
仕事に対する責任とか信用とか、もうそんなものはどうでもよくなり、3月の年度末を待たずに、わたしは退職した。独り暮らしをしていたアパートを引き払い実家に戻ってみたものの、相談もなく突然仕事を辞めた娘を、寛容に迎える親なんて当たり前だけどいなかった。
「あんた、いい加減にしなさいよ!やつれた顔をして帰って来たから大目に見てたけど、いつまでもゴロゴロしてないで仕事を探しなさい」
4月の中頃、とうとう母に怒鳴られた。分かっている。分かっているし探しているけど、何の資格も持たない、自己理由で、年度途中に仕事を辞めたわたしを雇ってくれる会社は見つからない。実家にも居づらくなったわたしは、新しい逃げ場を探した。それが祖母の家だ。
しばらくおばあちゃんの家において欲しいと頼んだわたしに、祖母は何も聞かずに「涼美の気が済むまで居ていいよ」と了承してくれた。そして実家からも逃げるように、ここに来たのだ。
今年はいつまでたっても寒かったのに、5月の大型連休を過ぎた途端に、初夏の陽気になった。じっとしていたら心地よい気候も、動いていると汗が滲んで来る。5月の終わり、わたしは日差しの中、長い坂のてっぺん近くにある祖母を家を目指していた。
最後に祖母の家を訪ねたのは、いつだっただろう。お盆もお正月も、もう何年も顔を出してないのに、突然しばらく住ませて欲しいと頼んだわたしに、祖母は何も聞かずに「おいで」と言ってくれた。
坂道の途中で立ち止まり、何の気なしに後ろを振り返り、登ってきた道を見下ろした。
*
今年の仕事始めの日、わたしは当時付き合っていた男性に、「話がある」と呼び出された。
「俺の出向も3月で終わるし、涼美とこういう関係になって2年もたつから、はっきりさせておこうと思って」
「うん」
彼はわたしが勤める支社に出向していた本社の社員。2年の出向期間が終わり、4月には本社に戻るから、このままだと遠距離恋愛になってしまう。
「はっきりさせておこう」という彼の言葉に、わたしはピンク色の淡い期待を抱いて頷いた。けど、彼はとんでもないことを言ったのだ。
「自分が寂しいからって、2年も付き合わせて悪かったね。今までありがとう、これからは俺に気を遣わないで、涼美は自由にしたらいいから」
「は、い?……それはどういう意味?」
「お互い元の生活に戻る、ってことだな」
「ちょっと待って。元の生活って何?別れるってこと!?何の話し合いもなくそれ?だって2年も付き合ってきたのよ。わたし、会社を辞める覚悟だって……」
「えっ、辞める?何で?」
必死に捲し立てるわたしに、彼は本当に意味が分からないという表情でキョトンとしている。
「もしかして、辞めて俺について来るつもりだった?いや、それ無理だろ。俺、結婚してるし」
「へ……?」
「えっ?」
今、何て言った?「結婚してる」……?
「えぇーーー!」
「ってか、知らなかった?俺はてっきり分かってて関係持ってるんだと思ってたんだけど」
本気で驚いているわたしに、彼は気まずそうな顔をしてグラスの水を飲み干した。
「そんな……結婚してるなんて聞いてない」
「だから、わざわざ言わなくても知ってると思ってたんだって」
「結婚……いつ?」
「入社してすぐ。大学の1つ後輩、今は都内の化粧品メーカーで広報をしている」
聞いてないのに、妻のプロフィールをペラペラ喋る彼の顔を、呆然とテレビでも見ている気分で見ていた。嬉々と語る彼にとってわたしは、支社にいる間の退屈しのぎだったんだと、じわじわと自覚していた。
その後、どうやって帰宅したのか覚えていない……ことは全くなく、意外としっかりした足取りで、きっちり買い物もして帰宅した。ただし、夕食の材料より、普段買わないスイーツやスナック菓子を大量に買い込んで。
その週は黙々と仕事に取り組んだ。仕事をしている間だけは、余計なことを考えなくて済む。ようやく迎えた週末、3年先輩で、今は親友といえる同僚に彼との一切合切をぶち撒けた。
「本気で知らなかったの?」
呆れ顔の親友は、さらに知ってて付き合ってると思ってたと付け足した。
「だって、誰も教えてくれなかったじゃない」
「あいつが結婚したの早かったしね。周知の事実って感じだったし。結婚指輪してないのは、あいつ左利きでしょ。デザイン画を描く時に、あちこちに引っかかるから外してるって言ってたわ」
さすが彼と同期なだけあって、よく知っている。だったら教えてくれたら良かったのに。
「付き合ってるって……知ってたの?」
「隠してるつもりだっただろうけど、見てて分かりやすかったって」
「……」
「頑張って、後腐れなく別れなさい。慰めてあげるから」
「うん……」
「わたしは何があっても涼美を愛してるよ!」
彼が既婚者だと知っても、彼への愛情が消えた訳ではない。だけど奥さんから略奪するほど、肝も座ってない。その気がない彼に縋っても、わたしには何のメリットもないから、別れる方向に動いている。ただ親友に話を聞いて欲しかっただけ。ギュッと抱きしめてくれた親友の胸に、顔をすり寄せて甘えた。
親友と話し、ようやく現実を受け止める気になってきた週明けの月曜日。
さらに追い打ちをかけるようなことを、彼がやってくれたのだ。
「立原に会社を辞めてついて行くって言われてさぁ。ちょっと何回か食事に行っただけなのに、本気になられてもねぇ。結婚してるって言ってるのに、嫁と別れろってしつこくて」
彼がわたしとの関係を触れ回っていた。辞めてもいいと、確かに思っていた。けど、それは彼が独身だと信じていたから。先週話をした時、わたしはついて行くとも、奥さんと別れて欲しいとも言ってない。キチンと彼と別れると明言しなかった、わたしの落ち度もあるけど。
秘めたる関係をペラペラ喋る彼の話を、他のスタッフたちも全面的に信じているみたいではなかつた。けど課内で冷たい視線が突き刺さり、まさに針の筵に座らされているみたいだった。彼が本社に戻った後は、新しい自分になろうと決意しかけていた心は、ポッキリと折れた。
仕事に対する責任とか信用とか、もうそんなものはどうでもよくなり、3月の年度末を待たずに、わたしは退職した。独り暮らしをしていたアパートを引き払い実家に戻ってみたものの、相談もなく突然仕事を辞めた娘を、寛容に迎える親なんて当たり前だけどいなかった。
「あんた、いい加減にしなさいよ!やつれた顔をして帰って来たから大目に見てたけど、いつまでもゴロゴロしてないで仕事を探しなさい」
4月の中頃、とうとう母に怒鳴られた。分かっている。分かっているし探しているけど、何の資格も持たない、自己理由で、年度途中に仕事を辞めたわたしを雇ってくれる会社は見つからない。実家にも居づらくなったわたしは、新しい逃げ場を探した。それが祖母の家だ。
しばらくおばあちゃんの家において欲しいと頼んだわたしに、祖母は何も聞かずに「涼美の気が済むまで居ていいよ」と了承してくれた。そして実家からも逃げるように、ここに来たのだ。