キミに恋の残業を命ずる
慌てて受付に走ってメイン画面を開こうとしたところで、課長がわたしの社員カードを取り上げた。
「いいよ。俺がしておくからキミは帰るといい」
「え?まだ課長お帰りにならないんですか?」
「まぁね。ちょっと立て込んでいる仕事があってね」
「そうなんですか…。申し訳ありません、わたしがご迷惑をかけたばっかりに時間を取らせてしまって…」
「気にしないで。おにぎり美味しかったし。さ、早く行かないと本当に帰れなくなるよ?それとも、まだ俺といたい?」
「一晩中…」と、色っぽい声で付け足されて、わたしは課長から弾けるように離れた。
「す、すみません、じゃあお言葉に甘えてお先に失礼しますっ」
ぺこりと頭を下げて風除室の自動ドアを通った、その時だった。
「そうそう、亜海ちゃん」
「あ、はい?」
急に呼ばれて、振り返った。
「今夜俺と会ったことは、だれにも内緒だよ」
「え?」
それは、まったく不意打ちと言ってよかった。
振り返った時にはもう、わたしは課長の影に覆われていて。
あごに指先を感じた、と思った瞬間。
課長の唇が、わたしの唇に重なった。
「……」
「二人だけの秘密だから、ね…」
頭が真っ白になって立ち尽くしていると、課長がゆっくりとわたしからはなれて、自動ドアが閉じた。
「じゃあまたね」と唇を動かし踵を返すと、後姿がプラスティックの扉の向こうで遠ざかっていく。
暗い建物の中に、白い後姿が消えていくのを茫然と見つめるわたしの唇には、まだ課長が落とした甘いぬくもりが残っていた。
それは、夢だと思っていた昨晩のそれにそっくりだった。