レンタル夫婦。

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「じゃあ、移動しましょうか」

時刻は15時5分前。
戻ってきたありささんに言われ、頷き荷物を持って立ち上がる。
部屋を出てついていき、エレベーターで8階へと移動し、案内されたのは先ほどと似たような扉の前だった。


「失礼します」

ありささんがノックしてドアに手をかける。
え、もう中にいるの!? なんて内心パニックになる。
ドキドキしながら部屋の中を見ると、居たのはスーツの男性一人だった。

「おう、本田。お疲れ」

その男性はそう言いながら腰を上げる。
室内は会議室のような空間だった。
長机があって、そこにパイプ椅子がいくつか並んでいる。
扉を入って左の方には大きなスクリーンやホワイトボードなどがあった。

「主任。こちらが中原みひろさんです」
ありささんがそう私を紹介したので軽く会釈する。

「初めまして、中原です」
「どうも。このチームの責任者の榊と申します。どうぞこちらへ。お荷物はこのカゴへ」
「有難うございます」

歩み寄ってきた彼はそう言って私に名刺を渡す。それを受け取ると奥の椅子へ座るよう促された。
言われるままに座って示されたカゴへと鞄を入れる。

スーツが似合うその人は、何となく仕事が出来そうという印象だった。
年齢は三十代半ばか後半くらいに見える。
観察するかのようにじっと見つめると、目が合ってにっこり微笑まれた。
何となくその笑顔はモテそうな気がする。
何か言った方が良いのかな、なんて思っているとコンコン、というノックの音がそれを遮った。

「――田辺です。入ってもよろしいでしょうか」

低い、落ち着いた声。

「おう、入れ。もうお待ちかねだぞ」

榊さんがそう答えると、失礼します、と同じ声が響いて扉が開いた。
入ってきたのはおそらく今声を出した男性。榊さんと同じくスーツで、年齢は三十代前半くらい?
……その、後ろに、彼、がいた。
写真で見た、山上くんそっくりの。

「――佐伯、湊くん」

殆ど口の中だけで、誰にも聞こえないように呟く。
隣に座ったありささんが一瞬首を傾げた気もしたけど、この際どうでも良い。

彼が、居た。
顔、ちっちゃくて。にこにこ、笑顔で。
イベントで見た山上くんみたいにキラキラしてる、彼。

挨拶しなきゃ、立たなきゃって内心パニックになって。
テーブルに両手をついて勢いよく腰を上げたら、ガタン、って。

パイプ椅子が倒れてみんなの視線が私に集まる。
あ、やばいどうしようって頭の中、やっぱりパニックで。

「大丈夫?!」

すぐ傍のありささんが椅子を直してくれる。

「あ……有難う、ございます。大丈夫、です」

絞り出した声は、さっきまでとは全然違う声。
自分のものじゃないみたいに小さくて、聞き取るのがやっと、みたいな。

「ケガ、なくて良かった」

いつの間にか。
本当にいつの間に? ってぐらい、彼、湊くんは私のすぐ目の前――長机一つ挟んだ向かい側にいて。
そう、笑ったの。
王子様、みたいに。

「……心配、してくれてありがとう」

色々言いたいことはあるはずなのに、それしか言えなかった。
それも、やっぱり聞き取りづらい小さな声で。
眩しくて彼を直視出来なくて、俯いたままになる。
どうして良いか、分からない。
まだ何も、始まってないのに。
心臓は煩くて。
顔をあげられない。

「中原みひろさん、だよね? オレと夫婦になるっていう」
「…………」

問いかけられて、何か言わなきゃって思うのに、ただコクコクと頷くことしか出来ない。
今、どんな表情をされてるのか、不安になる。
こんな女、嫌だって思わないかな。


「……ねぇ、顔あげて? ちゃんと、見せてよ」

落ち着く声。
聞き取りやすくて、滑舌もちゃんとしてて。
そういう声が落ちてくる。
だから、顔をあげなきゃって思うのに、顔、熱くて。
たぶん真っ赤だなって思ったらあげられなくて。
ただただ横に振るしか出来ない。
困らせたく、ないのに。

「そっか……じゃあ、」
「?」

不自然な所で言葉を切られて、続きを待つ。……と、続きは予想よりもずっと傍で響いた。

「――顔、見せてくれなきゃ、キスしちゃうよ?」
「っ!?!?」

ガタン、とまた椅子が倒れる。
鼓膜の傍で低く囁かれた言葉に思わず顔を上げる。……と、悪戯っこのような笑顔がそこに待っていた。

「あ、やっとこっち向いてくれた。……よろしくね、みひろさん?」


私はこの時思ったんだ。
こんなにもキラキラしてる彼と、……しかも、こんなことをサラっと口に出来ちゃう彼と。
一緒に暮らすだなんて、心臓がいくつあっても足りないって。


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