レンタル夫婦。
***

「で、出たよ」

洗い場でスキンケアも済ませて髪も乾かしてから戻ると、湊はソファーに座ってスマホを見てるみたいだった。
私の声に気付いて振り返る。

「お帰り」
「た、ただいま?」

不自然に返すとおかしそうに笑われた。

「あ、そうだ、ちょっとこっち来て」
「?」

それから、ソファーに来るよう示される。
大丈夫かな、って思いながらも側にいき、なるべくスペースをあけて腰を下ろした。

「はい、これ」
何だろうって身構えていた私に湊はそっと封筒を渡した。
全く中身が分からなくて首を傾げると、

「生活費」
と、説明する声が響いた。

「せいかつひ?」

上手く処理できなくてオウムのように繰り返す。
湊は少しだけ困ったように眉尻を下げた。

「最初の話し合いで決めたでしょ? お金は、みひろさんに渡すことにするって」
「え、そうだっけ?」

最初の話し合いというと初めて湊と会った時。
ほぼ記憶がなくて焦る。
湊は溜息を吐いた。

「大事なことじゃん」
「うん……ごめん」
「まぁいーけど。……一応、10万入ってるから。家賃とか光熱費は支払わなくていいし、食費とか消耗品とかだからヨユーで足りるでしょ」
「えっ10万円も!?」

湊が口にした額に驚いてしまう。
だって家賃や光熱費を引いたのなら、殆ど使う物がないじゃない、なんて考える……と、それが表情に出てしまっていたらしく、湊はクスリと笑った。

「全部使えってわけじゃないよ。 夫婦っぽく、共通の口座作って貯金しよ?」
「共通の、口座?」

だって、私たちの付き合いはたったの一ヶ月。それなのに、わざわざ口座を作る?

「うん、オレのことが信用出来ないなら、みひろさん名義で作ってもいいし。で、期間が終了したら会社に報告すんの」
「報告?」
「このぐらい余ったから、次はもっと少ない額でいいじゃない、って」
「そっか……! そうしたら、助かるもんね」
「そうそう。で、そのお金は二人で分ければいいよ」

ちょっと意外。
湊って意外と先のことまで考えてるんだ、って感心する。
同時に、自分が何も考えていなかったのを自覚して少しだけ恥ずかしくなった。

気持ちを切り替えて意気込んだように答える。……と、湊はやっぱりおかしそうに笑う。

「そうだね! なるべく貯めれるようにするね!」
「貯金が目的じゃないし、必要な分はちゃんと使って?」
「そ、それはもちろん」

でも実際自分の給料もあるから、全額貯金でも良いくらい。

「……あ、そうだ、湊は明日何時に起きる?」
「明日? 明日はちょっと遅いかも」
「そーなの? 仕事は? 何時から?」
「明日は11時」

あ、本当にゆっくりなんだって思う。


「そっか、じゃあ朝ごはんとかどうする?」
「あー……オレ、基本食べないから、作んなくていいよ」
「そっか、……じゃあ、そうするね」
「うん。みひろさんは、何時ごろ家出る?」
「8時前ぐらいかな?」
「8時ね、リョーカイ。……じゃ、そろそろ寝よっか」


何とか他愛もない会話を続けていくと、湊がふと部屋の時計を見てそう切り出した。
気付くと日付が変わっていて、びっくりする。普段ならもう、寝ている時間なのに。

「あ、ほんとだ……遅くまでごめんっ」

慌てて立ち上がると、同じように腰をあげた湊に手首を掴まれる。
え、と顔を向けると、視線が合った湊はいたずらっ子のように笑った。


「ねぇ、みひろさん。一緒にねよっか?」
「えっ!?」
「だっておかしいことないじゃん? 夫婦、なんだからさ?」 

そう言って湊は、そのまま私を抱きしめた。
え、ちょっと待って、なに、なんて頭の中パニックで体が固まる。

「……うん、同じシャンプーの匂い。こういうのって、ドキドキするよね?」

耳元で、湊の声がする。
ちゅっと、耳に口付けられて、頭に、熱が集まって。
ドキドキ、心臓は破裂しそうで、

「――だ、だめ!!」

私は、思わず湊を突き飛ばしてしまっていた。
驚いたような湊に慌てて顔を伏せる。

「ご、ごめん……びっくり、して」

だって、湊の匂いとか体つきとか、声とか、全部、近くて、

「……みひろさんってさぁ、26なんだよね? まさか、経験ないわけ」

動揺してテンションが上がる私とは反対に、湊の声が、少しだけ低くなる。
怖くなってそっと顔を上げると、少しだけ怒ったような表情がそこにはあった。

「そうじゃ、ないけど……」

だって、こんなにカッコイイ人と、付き合ったこと、ないもん。

「夫婦、望んでなったんだよね? 何? 触ったりはNGなの」

「…………」

「あのさ。これから一緒に生活してくわけじゃん? 一応は夫婦として。で、オレはね? 要はあなたに買われている訳。だから、みひろさんが満足するようにしたいんだ。こういうベタベタしたのが嫌なら言ってよ。そこは合わせるし」

怒ったような声で、湊はいつもより早口で告げる。
……ねぇ、買われるって、なに

「……とは」
「ん?」
「湊は。何でレンタル旦那、やろうと思ったの……?」

パジャマの裾をぎゅっと握る。
まだ触れる距離の湊を見上げて問うと、思い切り不機嫌な表情を向けられた。

「そういうの、NGなんじゃない? お互いについて深い詮索は禁止のはずだけど?」

さっきまでとは雰囲気が変わる。
苛々した様子に、少しだけ怖くなる。
でも、引き下がるわけにもいかなくて、

「……でも、一緒に暮らす人を知りたいと思うのは当然だよね?」
「…………」

少しだけ声を大きくして問う。
湊は何も言わない。
だからじっと見つめた。
カチコチと時計の音が響く。
正直、目を逸らしたい。
何か、言ってよ。

「みな、」
「わかった」

沈黙が耐えられなくて口を開くと、降参、とでも言いたげに湊が両手をあげる。
ホッと息を吐いて改めて湊を見ると、彼はふっと笑った。

「……でも、ちょっとずつ、ね? いきなり種明かしはつまんないでしょ」

そして私の頭をそっと撫でる。
はぐらかされたのだと思って、湊の服を力を込めて握った。
困った顔を向けられる。

「……いい、みひろさん。オレとみひろさんは夫婦、なんだよ。分かる? やるからには、好きになってよ、オレのこと」

そういう顔は、ずるいと思う。
捨てられた子犬みたいな目で見つめられて、何とかしてあげたいって気持ちが騒ぎだす。

「……じゃあ、湊は?」

だから、同じぐらい必死になって見つめ返した。
どうか、この気持ちが伝わるように、って。

「オレ? オレはもちろん、みひろさんが好きだよ」

でも、語尾にハートマークでもつくかのようにそう言われて、その軽さに眩暈がした。
こんなのって営業トークと一緒だ。
……それなのに、至近距離の無邪気な笑顔に私の胸はきゅん、とまたなった。

「……ずるい」

悔しくてうつむくと、その頭をぽんぽんと叩かれる。
それから、ちゅっとおでこに口付けられた。

「いいよ、ゆっくり、ね? オレはゆっくり口説くから、ゆっくりオレを好きになってくれればいいよ」

そう言ってやっぱり無邪気に湊は笑う。

――ねぇ、神様。
こんな人、現実にいるんでしょうか。
何度も何度も心の中で問う。
やっぱり、どうやったって。


(こんなの、すぐに好きになっちゃうよ……)
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