僕は君の右手になる

彼女はデザートのまんじゅうを食べ終えると、持参していたウェットティッシュで綺麗に手を拭き立ち上がった。

ピアノの前に座る。

そしていつも僕を見てこう聞くのだ。

「今日は何を弾こうか」

満面の笑みで、僕が大好きな店のミックスフルーツサンドを食べている時に浮かべているであろうくらいの笑みで、

嬉しそうに僕にそう聞く。

僕はなんでもいいと答えた。これもいつもの事だ。

そういうと彼女は少し考えてから、決まってシューマンの曲を弾く。

僕は彼女に出会う前に、初めて聴いた時から、自由なピアノだと思っていた。

彼女はいつも譜面通りではなく、おそらくその日の気分や天気や、ご飯のあとの満腹度なんかでも、弾き方を変えていた。

というと、語弊があるかもしれない。変えていたのではなく、変わってしまっただけかもしれないから。

なんせ、彼女はどこかの野良猫のように気まぐれだから。

僕は彼女のピアノにどんどん惹かれていった。

音符一つひとつがまるで譜面から出てきて踊っているかのような、

譜面がモノクロではなく、カラフルになったかのような、

彼女のイメージが、空気で、匂いで、温度で、伝わってくるかのような、

そんな彼女のピアノに惹かれていた。

僕は彼女とは正反対の、できるだけコンクールで勝てるような演奏、

つまり、譜面通り、できるだけ忠実に、余分な解釈や気持ちは乗せない弾き方しか出来ないから、

彼女に憧れているのかもしれない。

自由な、何にも縛られない彼女に。


彼女は、ふぅっ、と息を吐いて左手を鍵に乗せる。


この瞬間、僕は彼女のイメージを旅する。

彼女の世界を一周回る。

僕は気づいた。今日はシューマンではなく、エルガーだ。

彼女が弾いているのは、愛の挨拶だった。

さっきまでその話をしていたから、

フルーツサンドを僕にご馳走してくれるつもりだろう。

美味しい。彼女の作るフルーツサンドは美味しいが、

ちょっと甘みが強すぎる。この甘みはきっと生クリームだ。

僕は立ち上がり彼女の隣に行った。

「今日のフルーツサンドはいちごだよ。酸味の強いいちごだった」

酸っぱめのいちごは、甘すぎない生クリームの方が美味しいんだ。

僕はそう言い加えた。

僕が彼女のピアノにコメントするのは初めての事だったから、

彼女は目を丸くしていた。初めてあった時くらい、目をまん丸にしていた。

「君がそんな事言うなんてめずらしいね」

決して嫌そうな顔ではない。口出しされてムッとしているのではない。

反対だ。

彼女は少し頬を染めて嬉しそうにしていた。光の加減でそう見えただけかもしれない。

「私は食べてないから分からないもの」

今度ご馳走してよ、とにこりと笑いながら彼女は言った。
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