僕は君の右手になる
僕は彼女にそう言われ、戸惑った。

普段なら何のためらいもなくお断りするが、事の発端になるようなことを言ったのは僕だったから。

僕のピアノを、彼女はどう思うだろうか。

自由で何にも縛られず、自分の思ったように、感じたように、自分をさらけ出して、
音に自分自身を込めて、乗せて、

そうやってピアノを弾く彼女はどう思うだろうか。


──僕は怖いんだ。比較され軽蔑され、ため息をつかれることが。


「ご馳走してあげたいのは山々だけど、僕はもうピアノは弾かないんだ」

「どうしてそんなに頑なに拒むの?」

「拒んでなんかいないよ。単に僕が弾きたくなくなっただけなんだ」

「こんなにもピアノが好きなのに?」



ピアノが好き、という彼女の言葉が僕の鼓膜を震わせた。

何度も頭の中でリピートされるその言葉。

ピアノを好きなことを否定出来ない。だって僕はメロディしかないピアノが気になって、ここに来て、

そして彼女と出会い、彼女のピアノを聴きたくて毎日ここに来ているのだから。

「君はどうしてピアノを聴く時そんな顔をするの?」

そんな顔ってどんな顔だろう。

至って普通の顔で聴いている、と思う。

にやける訳でもしかめ面になる訳でもない。

真顔で聴いているのか、と言われればそれはそれでなんとも言えないのだけれど。

「僕はどんな顔をしている?」

「なんだか、嬉しさ半分悲しさ半分みたいな顔」

彼女のピアノは僕の憧れなんだから、嬉しさ半分の部分は納得できるし、確かにと思う。

悲しさ半分て、僕は一体何が悲しいのだろう。

自分の心の中なのに、まるでお風呂の湯気のように隠されてしまっていて僕には見えない。

「君はピアノが好きなんでしょう、弾く理由なんてそれだけではいけないの?」

彼女は僕の目を真っ直ぐ見つめてそらさない。

「君は何のためにピアノを弾いていたの?ピアノに何をこめていたの?」

「君はピアノを見る時辛そうな顔をしてる。苦しくて痛くて、何かと戦っているみたい」

「どうして君は弾かないの?」

彼女は僕から目をそらさない。

──僕は何のためにピアノを弾いてきたのだろう。

僕がピアノを弾いていたことに理由なんてあったのか。

惰性で続けてキリがいいからやめた?

比較されるのが嫌で、ため息を疲れるのが嫌で……

「君は、僕の姉を知っているよね。姉のように僕は上手くないんだ。だから僕は」

「お姉さんのように、弾けなければいけないの?

君は君の演奏ではいけないの?

生きてきた時間も、経験したことも、感じてきたことも君はお姉さんとは違うのに」


僕はしばらく何も言えなかった。

「私は、君のピアノが聴きたい」

彼女は目をそらさない。




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