【エッセイ】『バックヤードの向こう側』
14 方言の温度
なぜ関西弁のキャラクターばかり書くのか、と言われると答えは明瞭で、
「筆者自身が関西生まれである」
という一語に尽きる。
現に。
天王寺生まれの姫路育ち、生まれてから就職まで一度も関西から離れて暮らしたことがないとなると、抜けないのも宜(むべ)なるかなというもので、
「これ、関西弁ですよ」
などと指摘されることが、いまだにある。
本人が標準語のつもりでも機微が関西弁であったりもするから、どうにも直らない。
しかも。
いまだに「パキパキした東京弁」といったような言い方をしてしまうこともあるので、恐らくはコンプレックスのようなものが潜在的に含まれてあるのかも知れない。
ただ。
日本の文学史は近代の漱石や鴎外の以前は江戸文学で、そのルーツは能や狂言にある。
さらに言えば。
その前は太平記や平家物語などの軍記物が文学とされ、源氏物語や伊勢物語など、その言語のベースは平安京で遣われていた畿内地方の言葉である。
そこから考えると。
別に文学は東京弁と限ったものではなく、新しい表現の一つとしての方言の可能性を模索しても悪くはないと思うのである。
仮に。
まったく方言が使えないとなったら、標準語にない機微をあらわす「ボチボチ」や「考えときまひょ」のようなやんわりとしたクッション材のような単語はどうするべきなのかということになってしまう。
人間は生身である。
その生身たるやわらかさを標準語だけで表現しきれないとしたら、方言に頼るしかないと思う。
さまざまな人間がいることに、最近ではバービー人形の世界などでも考慮されている。
文学も、そうした表現があって良いように、個人的には感じる。