平凡な毎日に恋という名の調味料(スパイス)を
「そうだ! ねぇ、晃ちゃん。こちらのお客さん、晃ちゃんが辰樹屋にいたのに気づいたの。すごいよね」

希さんがコックコートの袖を引っ張りながら興奮気味に教えると、店長さんは眼をパチパチと瞬きさせた。

「へぇ、それはすごい。よっぽど舌の感覚が鋭いんですね」

ふたりに持ち上げられると、ますます身の置き所に困った。そんなんじゃないのに。

「えっとですね。あの、玉子焼きの味がいっしょだなぁと……」

しどろもどろに種明しをしてみせれば、さらに感心される始末。
「ちょっと待ってて」と希さんは厨房に一度引っ込むと、中ジョッキを手に再登場した。

「これは未来のお得意様にサービス」
「でも、もう1杯いただいてますよ?」

2杯目のビールに内心で唾を飲みこみながらも、いちおうここは遠慮しておく。けれど、ずいっと目の前に押し出され、にっこりと微笑まれてしまった。

「同じマンションに住むご近所さんなら、これからもご贔屓にという私の気持ちです。それにお客さんに呑んでもらえなかったら、捨てるしかなくなっちゃいますけど……」

たしかに妊婦さんにアルコールを勧められないか。店長さんを見上げ、視線で助けを求めてみる。
すると彼はパチンと器用に片目を閉じて、長い人差し指を唇の前に立てた。

「お酒、嫌いじゃないですよね? ただし、ほかのお客様には内緒でお願いします」

今朝のゴミ袋の中身を見られていたのだと思うとすごい恥ずかしい。けれどいまさら取り繕ったって、目の前にはすでに空っぽのジョッキもあるし。

「じゃあ、お言葉に甘えていただいちゃいます」

結露の汗をかいたジョッキを勢いよく呷った。

「やだ、もうこんな時間。看板をしまってこなくっちゃ」

ラストオーダーの時刻をとっくに過ぎていたらしく慌てて表に出ようとする希さんを、店長さんが片手で制した。

「俺がやるからいいよ。立ちっぱなしだっただろう? ちょっと座って休んでな」

そう言うとお店の外に出て行った。
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