平凡な毎日に恋という名の調味料(スパイス)を
◇ ◇ ◇
春と夏の間の季節は夜道でも心地好い。
カタカタと箸の刻むリズムに合わせて歩いていれば、少しずつ酔いも覚めてきた。
マンションの前に着くと、閉店時間を過ぎた橘亭の看板の電気は消えていたけれど、ドアのガラスから細い光が漏れていた。
お弁当箱、返さなくっちゃ。
鍵がかかっていないことを祈りながら静かに扉を開くと、美味しい匂いの空気が外へと流れ出す。もったいなくて慌てて閉めた。
「あれ? 礼ちゃん?」
小さく鳴ったドアベルに気づいた晃さんが厨房から顔を出した。
「こんな時間にどうした? 飲み会は?」
「もう終わりましたよ。これ、返しに寄りました」
カラカラと袋を振ってみせると、「明日でいいのに」と苦笑しながら受け取ってくれた。
「今日もごちそうさまでした。イカ大根、さっそく作ってくれたんですね。美味しかったです」
「ちょうどいいイカが安かったからね」
晃さんは、お弁当箱を袋から取り出しながらくすりと小さく笑う。
「これ、いつもありがとう」
ひらひらとさせたのは、すでに日課になっているお礼の一言メモ。さすがに目の前で読まれると、ちょっと恥ずかしい。
「希さんは?」
はぐらかすように店内に視線を巡らしても、彼女の姿は見当たらない。
「とっくに帰らせたよ。今日は少し暇だったし」
それもそうか。妊婦さんに夜更かしはよろしくないだろう。
「晃さんはまた仕込みですか? 良い匂いがしてる」
「うん。でも、もう終わったよ。そうだ、ちょっと時間もらえる?」
鼻をクンクンとしているわたしの前に平皿が置かれた。
「明日の日替わりにしようと思うんだけど。味見してみて」
「サバの味噌煮、ですか?」
「一年中ある魚だけど、本当は秋サバのほうが脂がのっていて美味しいんだよね」
珍しく自信なさげに言いながら、また厨房に入っていく晃さん。わたしは「いただきます」と手を合わせて、まだ湯気の上がる身を一口摘まむ。
「んっ! 十分美味しいですよ。でも、ちょっと濃いかな? ご飯かお酒が欲しくなります」
この味のどこが心配なんだろう。わたしなんて、同じ料理を作っても一度も同じ味にならないのに。
じっとお皿の上のサバの切り身とにらめっこしていると、視界に小振りのグラスが割り込んだ。
春と夏の間の季節は夜道でも心地好い。
カタカタと箸の刻むリズムに合わせて歩いていれば、少しずつ酔いも覚めてきた。
マンションの前に着くと、閉店時間を過ぎた橘亭の看板の電気は消えていたけれど、ドアのガラスから細い光が漏れていた。
お弁当箱、返さなくっちゃ。
鍵がかかっていないことを祈りながら静かに扉を開くと、美味しい匂いの空気が外へと流れ出す。もったいなくて慌てて閉めた。
「あれ? 礼ちゃん?」
小さく鳴ったドアベルに気づいた晃さんが厨房から顔を出した。
「こんな時間にどうした? 飲み会は?」
「もう終わりましたよ。これ、返しに寄りました」
カラカラと袋を振ってみせると、「明日でいいのに」と苦笑しながら受け取ってくれた。
「今日もごちそうさまでした。イカ大根、さっそく作ってくれたんですね。美味しかったです」
「ちょうどいいイカが安かったからね」
晃さんは、お弁当箱を袋から取り出しながらくすりと小さく笑う。
「これ、いつもありがとう」
ひらひらとさせたのは、すでに日課になっているお礼の一言メモ。さすがに目の前で読まれると、ちょっと恥ずかしい。
「希さんは?」
はぐらかすように店内に視線を巡らしても、彼女の姿は見当たらない。
「とっくに帰らせたよ。今日は少し暇だったし」
それもそうか。妊婦さんに夜更かしはよろしくないだろう。
「晃さんはまた仕込みですか? 良い匂いがしてる」
「うん。でも、もう終わったよ。そうだ、ちょっと時間もらえる?」
鼻をクンクンとしているわたしの前に平皿が置かれた。
「明日の日替わりにしようと思うんだけど。味見してみて」
「サバの味噌煮、ですか?」
「一年中ある魚だけど、本当は秋サバのほうが脂がのっていて美味しいんだよね」
珍しく自信なさげに言いながら、また厨房に入っていく晃さん。わたしは「いただきます」と手を合わせて、まだ湯気の上がる身を一口摘まむ。
「んっ! 十分美味しいですよ。でも、ちょっと濃いかな? ご飯かお酒が欲しくなります」
この味のどこが心配なんだろう。わたしなんて、同じ料理を作っても一度も同じ味にならないのに。
じっとお皿の上のサバの切り身とにらめっこしていると、視界に小振りのグラスが割り込んだ。