平凡な毎日に恋という名の調味料(スパイス)を
その源はこれから出産に臨む母親の強さか、あるいはわたしへの怒りなのか。後者だとしたら、どんなに言葉を並べても謝りきれない。

「礼ちゃ――」
「ごめんなさいっ!」
「ちょっと! 私、まだなにも」
「わたしと晃さんの間には、なんにも無いんです、本当です! さっきのは、手違いというか勘違いというか……。
とにかく、すみませんでしたっ!!」

無我夢中で捲し立てたわたしの勢いに陣痛さえも吹き飛ばされたのか、希さんが何度も大きな目を瞬かせた。

「お願い、礼ちゃん。少し落ち着こう?」

米つきバッタのように頭を下げ続けるわたしの肩に、希さんが手を置いてトントンと叩く。

「前から思っていたんだけど。礼ちゃん、あなたひょっとして――」
「タクシー着いたぞ」

息せき切って戻ってきた晃さんの後ろから、スーパーのレジ袋を下げた武志くんが「なんかあったんすか?」と暢気に現れる。

「ご苦労さん。帰ってきたところ悪いんだけど、子どもが産まれそうなんだ。だから、臨時休業の札を出したら、戸締まりして上がってもらえる? 鍵は悠佳ちゃんに伝えるついでに、大家さんに渡しておいて」

晃さんはいつものおっとりした口調とは真逆に、早口で言いたいことだけ告げると、橘亭の鍵を武志くんの手のひらに落とす。

「さあ、行くぞ」

希さんの腕を肩に回して立たせると外へと向かう。それに引かれるようにしてわたしも続いた。
なぜって? それは希さんが反対側の手を離してくれないから。

タクシーまで来ても彼女の手はそのままわたしの手首を握っていて、離して欲しいと控え目に申し出てみれば、
「礼ちゃんもいっしょにきて」と、車内に引っ張り込まれてしまった。

「がんばってくださいっ! ファイトっす!!」

武志くんの体育会系的なエールを受けながら、タクシーは病院へと走り出した。
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