平凡な毎日に恋という名の調味料(スパイス)を
線路を挟んで反対側にある病院まで10分ちょっと。陣痛の間隔はかなり狭くなってきているのか、後部座席で痛みに耐えている希さんの手を握り、背中をさするだけで精一杯だった。

病院に着くと連絡を受けていた看護師さんや助産師さんが待機してくれていて、攫うようにして希さんを連れていく。
たぶん検査とかのためだろうけど、その手馴れた早業に感心していると、晃さんは電話をかけに外へ行ってしまった。

待合室にぽつんとひとり取り残されたわたしは、赤い痕の残る右の手首を左手で撫でる。

なんでわたし、こんなところにいるんだろう。
深い溜息をひとつ零しておもむろに踵を返し出口に向かおうとすると、中からやって来た見覚えのある看護師さんに呼び止められた。

「山越(やまこし)さんのご家族の方ですよね?」

聞き慣れない苗字にいいえと首を振る。

「あら、でもさっきいっしょにいらっしゃったんじゃありませんでしたっけ? 山越希さんと」
「希? って、あの、背の高いストレートロングの希さんですか?」
「そうそう。なんだ、やっぱりそうなんですね。手続きとかもあるんで、あちらへお越しください」

頭の中が疑問符でいっぱいのわたしを先導しようと、看護師さんは歩き始めてしまう。

え? なに、どういうこと??

「すみません、山越希の家族の者ですが」

用事がすんだのか、後を追ってきた晃さんまでもが知らない苗字を口にする。

希さんって『橘希』じゃないの!? じゃあ、晃さんも? マンションの表示はどうして?

わたしの増え続ける疑問はスッパリ無視され、ふたりの間で会話が続いている。

「えぇっと、じゃあ、あなたがダンナさんね。立ち会いはどうします?」
「あっ。俺はダンナじゃなくて弟です。彼女のダンナはいま、新幹線でこちらに向かっています」
「あら、そうなんですか。それだと間に合うかしら? 初産なのに、けっこう進みが早そうなのよね」

ベテランっぽい看護師さんは、足音の響く廊下を歩きながら苦笑した。

「えっ? えぇ~っ!!」

廊下に反響するわたしの叫び声に、振り返った先を行くふたり。

もちろんわたしは、看護師さんにこっぴどく注意を受けたのであった。
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