平凡な毎日に恋という名の調味料(スパイス)を
結局そのあとも、社内はバタバタしっぱなしだった。

ウチのような小さな会社だと、社長自身が担当する仕事も他の社員並に割り当てられる。
社長としての仕事にプラスしてこなしていたんだから、あのペンギン……小室社長、それなりにできる男だったということなのかな?

とにかく、彼の分の仕事を振り分け、復帰するまでの間をどうするかという会議が上役たちで開かれた。
で、その会議をしている彼らの分が、さらに下っ端の私たちに分担されるという悪循環。

なんとか収拾をつけて会社を出たのは、定時を大きく過ぎた20時近くになってからだった。

暦の上ではとっくに春になっているとはいえ、夜はまだ冷える。マフラーに鼻下まで埋めて家路を急ぐ。

電車待ちのホームでコートのポケットに手を入れたとき、がさっという感覚に指先に当たったものを引っ張り出した。

朝のチラシ、入れっぱなしにしてた。

ゴミ箱へ捨てるために移動しながら、いちおう広げてみる。

『定食屋 橘亭 開店のお知らせ』

手書きと思われる黒一色のシンプルな文字の内容は、わたしの住むマンションの1階部分にあるテナントに新しくオープンした定食屋さんの広告だった。
開店したのは昨日らしい。前を通ったけどぜんぜん気づいてなかったな。

主なメニューと値段が書いてあるのをみて、急にお腹が空いてきた。朝も昼もパンでは、腹持ちが悪いのだ。
家の冷蔵庫の中身と電光掲示板が示す時刻とを考える。これから自宅に帰って作り終わるまで、空っぽの胃は待ってくれるだろうか。

でも外食して帰るなんて贅沢は……。未練がましくチラシに目を戻すと、右下の隅に目が釘付けになった。

『オープンから3日間、このチラシをご持参のお客様に生ビール1杯サービスいたします』

ゴクンと生唾を飲み込んだ。発泡酒じゃないビールなんて会社の新年会以来飲んでいないぞ。

ホームに入ってきた電車に乗り込み揺られながら、頭の中で素早く計算する。
お給料日まではまだあるけれど、来週からお昼を仕出し弁当に戻せば、それくらいの余裕はできるだろう。
残業を頑張ったご褒美だ。たまにはいいよね?

丁寧に折り直したチラシをバッグにしまい、最寄り駅に降り立った。

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