平凡な毎日に恋という名の調味料(スパイス)を
晃は夕方の仕込みに入る前に、いったんマンションの部屋に戻ってリビングの引き出しを漁る。
たしか、希が実家へ戻ったときに返してもらったものがあるはずだった。

目的のものを見つけると、今朝手に入れたアレにつけてみる。
我ながらなかなか笑えるものができあがり、彼女に渡したときの反応が俄然楽しみになった。

日が傾き始めヒグラシの声が大きくなったころ、武志が店に出てきた。このテナントの上の階に住む大学一年生の彼は、春に上京して一人暮らしだ。

若い男子の栄養状況を鑑みた大家が、賄い付きの橘亭でのバイトを勧めたという経緯がある。
おかげで、この二月余りの間に少々体重が増えたようだ。高校まで続けていた柔道を辞めたということも原因だろうが。

くんくん、と犬のように鼻を鳴らすと相好を崩す。

「今日も良い匂いっすね」
「先に賄いを食べるかい? まだ時間があるから」
「んじゃ、お言葉に甘えて!」

山盛りの丼飯を豪快に減らしていく武志の食べっぷりは、見ていて気持ちいい。だからついつい、晃も賄いの域を超えて彼に食事を与えてしまう。

『いくらバイトに来てもらってるからって、ちゃんとお給料を払っているんだから、ほどほどにしないとお店が潰れちゃいますよ』

滑らかな白い頬を膨らませて小言を言う彼女を思い出し、晃はくすりと笑んだ。

「じゃあ、田舎のご両親によろしくね」

明日の早朝に帰省するという武志を早めに上がらせ、晃は一人店に残った。

時計をみれば、九時十分前だ。ラストオーダーの時間もとうに過ぎ、残っていた客もすべて帰ったあとなら、もう暖簾を仕舞ってもいいだろう。
店表に出ると、街灯の明かりがよく知った顔を照らし出していた。

「こんばんは」

一度自宅に帰ったらしく、ふわりと生温い風に乗ってシャンプーの香りが晃の元まで届く。

「おかえりなさい、礼ちゃん。お疲れさま」

晃は今日一番の柔らかい笑顔を創ると、下ろした暖簾とともに礼子を店内に招き入れた。
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