平凡な毎日に恋という名の調味料(スパイス)を
 ◇ ◇ ◇

楽しみが待つ帰り道は足取りも軽く、朝とは違い人通りも疎らな風の冷たい夜道でも短く感じられる。
あの角を曲がればすぐだ。気持ち速まった足がいつもの交差点を通り過ぎた。

6階建てのマンションは、わたしが住むワンルームとファミリータイプが半々くらいで、1階部分はすべてテナントが入っている。床屋と花屋と、そして例の定食屋の3件。

ついでに大家さんちは最上階。息子さんご家族との2世帯のみでワンフロアを使っているそうだ。

床屋と花屋はすでに閉店しているようで、電気も消えシャッターも下りている。
橘亭はエントランスを過ぎた一番左端に、看板を掲げていた。

外に出されてあるイーゼルに乗った黒板に目を通すと、お得な本日の日替わり定食は『肉じゃが定食』とチラシと似た字で書いてある。

よし、コレに決めた!
吸い込まれるように温かみのある灯りが漏れるドアを引くと、ドアベルがカランコロンと賑やかな音を立てた。

「いらっしゃいませー」

エプロンを着けた女性の明るい声に迎えられる。

「お一人ですか? こちらへどうぞ」

アイボリーの塗り壁に焦茶色のテーブルや椅子。色数を抑えスッキリとまとめられた店内は、古民家を訪れたみたい落ち着いたものだった。
余裕を持ってテーブルを置いているらしく、小上がりに置かれた少し大きめの座卓の席など全部合わせても30席に満たないうち、壁際にある4人用のテーブル席に案内された。

お冷やとおしぼりを持ってきた先ほどの女性に「日替わり定食で」と伝えると、くっきり二重の大きな目を細めて応えてくれた。

「それから、このチラシもらったんですけど……」

バッグの中から取り出して控え目に例の箇所を指で示す。さすがにちょっと恥ずかしい。

「わあ、見てくれたんですね! かしこまりました。先にお持ちしてよろしいですか?」
「はい、お願いします」

会釈をして厨房らしき方へ戻っていく彼女の、すらっと長い手足とはちぐはぐに少しだけふっくらとしたお腹が目に留まった。

もしかしたら、妊婦さん? 

そのわりにはきびきびと店内を動き回っている。見ているこちらの方が、なんだかハラハラするくらい。
わたしより先にいたお客さんの会計を手際よく済ませ、空いたテーブルを片付けると、重ねた食器を事もなげに持ち上げた。
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