諸々の法は影と像の如し
 男は己の直衣を踏む距離にいるモノを見、息を呑んだ。
 手を伸ばせば届く距離で己を見上げているのは、見たこともないモノだ。

 大きさは人の腕ほど。
 猿のようにも見えるが、全身を覆う毛は長く薄い茶色だ。
 しかも顔の真ん中には、手の平ほどもある大きな目が一つ、じっと己を見つめている。

「……っ!!」

 男は牛車の中で腰を抜かした。
 明らかに人でないものである。

 口を大きく開けただけで叫び声も出ない男を見、それは初めて口を開いた。
 目と同様、口もでかい。
 にいぃっと上がった口角から、ずらりと並んだ牙が覗く。

 男が今度こそ悲鳴を上げようと息を大きく吸い込んだ。
 だが声が喉から発せられる前に、そのモノが動いた。
 びょーんと飛んで、男の喉笛に食らいついたのだ。

「ひあぁぁぁぇぇ……」

 男の悲鳴は、悲鳴ともつかないような、か細い声が漏れただけに終わった。
 恐怖のあまり失神しそうになるが、物の怪に食われている身体は意識を手放すことを許さない。

 牛車の外では従者と牛飼い童が、どうしたものかと困っていた。
 何かが飛び込んだのも、そんな気がしただけなのだ。
 一瞬頭の上を何かが飛んだような気がしただけで、姿も見ていない。

 そもそもあのような場所から入るモノなど、ありはしないのだ。
 入ったとして、小動物。
 従者たちは、あえてこの千年魔都に跋扈する魑魅魍魎からは、意識を外していた。
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