諸々の法は影と像の如し
「師直(もろなお)様、どうかなさいましたか?」

 外からは何も見えない。
 男はすぐに腰を抜かしたので、動けもしなかったお蔭で大した物音もしなかったのだ。

 悲鳴も掻き消された。
 男にとってはかなりな時間が経ったように思えただろうが、実際はほんのひと時だ。

 外の従者もあまり不審に思わない。
 唯一牛だけが、先程よりも激しく暴れた。

「ど、どうしたのだ! 師直様、大丈夫ですか?」

 激しく牛車が揺れたため、従者が牛車の前面の御簾に駆け寄った。
 松明を近付けて初めて、従者の顔が強張る。
 御簾の下から、赤黒い血が滴っていた。

「師直様!」

 ぱっと、従者は御簾を跳ね上げた。
 そして次の瞬間、ひっと息を呑む。

 牛車の中は血の海だった。
 その中央に、主が大きく目と口を開いて仰臥している。
 喉元は首の半ばまで肉が抉れ、顔も片頬は食いちぎられたようになくなっている。

 そして主の胸の上には、小さな何かが、何かを両手で抱えて貪っている。
 ぴちゃぴちゃ、と音を立てて何かを咀嚼し、そのモノは顔を上げた。
 大きな一つの目で従者を見る。

「うっ……うわあぁぁぁぁ!!」

 従者は叫びつつ後ろに下がろうとした。
 が、足がもつれて尻もちをつく。
 その瞬間、牛車の中にいた物の怪が、従者に飛び掛かった。

「うわぁっ! 助け……」

 仰向けに転がりながら、従者が叫び声を上げる。
 牛飼い童はただ青くなって震えていた。
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