星の音[2016]【短】
店内に入って来たのは、スーツを着た男性。


「いらっしゃいませ」


恐らく五十代前半くらいであろう男性は、俯きがちでなんだか覇気がない。私の声に対して、彼は一瞬だけ視線を合わせたあとで僅かに頭を下げただけだった。


店内を見渡すこともなくぼんやりと棚を見つめている男性から感じるのは、絶望の色すら滲んでいるようなとても暗い感情。

本を探す気がないのが明白な横顔からは疲れ切っている雰囲気が漂い、目の下にはクマができていた。そんな姿を見せられて、声を掛けずにはいられない。


「よろしければ、こちらにお掛けになりませんか?」


私の言葉に驚いたのか、男性は肩をビクリと強張らせたあとで戸惑うような顔をした。


「いや、私は……」

「遠慮なさらずに」


だけど、私がにっこりと微笑んで見せると、彼はウッドチェアを引いて促す私の方へとゆっくりと足を踏み出した。


「少しお待ちになってください」

「え?」

「うちでは皆さんに飲み物をお出ししているんです」


男性は躊躇うようにしながらも小さく頷き、足元にカバンを置いた。私は笑顔で「すぐに淹れますね」と言い残し、いつものようにお湯を沸かした。


常連客には希望を訊くし、人それぞれに好みがあるのもちゃんとわかっているけれど、初めてのお客様にはカフェオレを出すことが多い。特に彼のように疲れた顔をした人には、コーヒーやお茶よりも甘さを加えた飲み物が必要だと思えてしまうのだ。


暗い表情がほんの少しでも和らぐように淡い色合いの花柄のカップを選んで、今日来たお客様たちにも出した小さなキャンディー包みのチョコレートをふたつ取り、それを白い小皿に乗せた。

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