[短篇集]きみが忘れたむらさきへ。
きみがサイダーを持って立ち尽くす姿をどこか遠くで眺めながら、必死に手を伸ばすのだけれど、淡い霧に阻まれてトンネルの向こう側へ行けない。
本当は、一度でもこちらへは来るべきではなかった。
「ねえ、何考えてるの」
瞳を揺らすきみに何を言ってやれるだろう。
確かなことは、きっと何もない。
空を見上げた。
入道雲がまるで空への架け橋のように大きく描かれている。
夏の終わりが近いことは、僕たちの頬を撫でる風、もうじき暮れ始める空、視界の端を飛ぶトンボ、そして僕の手から零れ落ちたサイダーが教えてくれた。
「……ごめんな」
彩夏はこの町の夏そのものだ。
トンネルの向こう側にはない、鮮やかで眩しい、瑞々しい夏。
僕は、きみに出会えてはじめて、モノクロの世界は色付くことを知った。
段々と襲い来る眠気に逆らえないまま、彩夏の肩に凭れる。
これがただの戯れだったのなら、彩夏は僕を弾き飛ばして頬を膨らましたのだろうけれど、ほんとうに身体が重くて、瞼が持ち上がらない。
夏に色があるのなら、それはきっとサイダーの色だ。
きみが持ってやって来る、夏の色。
また、きっと来年も触れたいと思う。
「さよなら」
またねがなかったとしても、嘘にはならないように。
きみの落とした涙の粒が頬に落ちたはずなのに、その感触はない。
夏なんて、大嫌いだ。
きみの落とした一滴がサイダーのビンに弾かれて、線香花火の様に散る。
次の夏なんて、なければいい。
だけれど僕は、またきみに会いたい。
( 僕の手がさよならを呼んだ )
(20180901)