[短篇集]きみが忘れたむらさきへ。
薄暗がりの中で、彼が僅かに顔を顰めたのが見えた。
「前に、言っただろ」
「なにを」
嘘。本当は、覚えてる。
「肌には触れたくない。爪とか、髪にしか触れたくない」
なんで、と前は訊いた。
けれど、今回は言わない。
もう知っている。訊けば私の胸が痛むだけ。
「…ごめんな」
一線を引かれている事なんて、疾うに知っていた。
彼は、私には触れない。
私の、末端にしか触れない。
夢中で抱き合ってお互いを求めている間は、汗も別の体液も気にせずに搔くように私に触れるのに、だ。
熱が冷めれば、彼は何事もなかった様に体を拭いて、それきり私の素肌には触れない。
たった今掴まれた手首だって、衣服の隔たりがなければ、彼は触れもしなかっただろう。