[短篇集]きみが忘れたむらさきへ。


薄暗がりの中で、彼が僅かに顔を顰めたのが見えた。


「前に、言っただろ」


「なにを」


嘘。本当は、覚えてる。


「肌には触れたくない。爪とか、髪にしか触れたくない」


なんで、と前は訊いた。

けれど、今回は言わない。


もう知っている。訊けば私の胸が痛むだけ。


「…ごめんな」


一線を引かれている事なんて、疾うに知っていた。


彼は、私には触れない。

私の、末端にしか触れない。


夢中で抱き合ってお互いを求めている間は、汗も別の体液も気にせずに搔くように私に触れるのに、だ。

熱が冷めれば、彼は何事もなかった様に体を拭いて、それきり私の素肌には触れない。


たった今掴まれた手首だって、衣服の隔たりがなければ、彼は触れもしなかっただろう。


< 16 / 112 >

この作品をシェア

pagetop