[短篇集]きみが忘れたむらさきへ。
掠めるように、呼吸を奪う。
洩れた吐息が遠い藍とオレンジの境目に吸い込まれて、空に溶けてしまえばいいけれど、それは叶わずに彼の口腔に飲まれる。
心なしか薄い膜が張ってキラリと輝いて見える彼の瞳が、私の双眸を捕えて離さないから、ずっと逃れられずにいた。
身動きなんてさっきからひとつも取れやしないけれど、心臓を鷲掴みにされてきゅっと軽く握られたみたいな、痛みではない妙な感覚。
「あと、何分?」
彼の問い掛けに、怠い肩をぎしりと軋ませて腕時計を確認する。
「あと、に……」
二十分、そう言いかけたのに、今度は深い口付けで声を奪っていく。
聞く気がないなら、時間なんて尋ねなきゃいいのに。
頑なに開かずにいた唇の隙をつきたかっただけなんだって、わかっていたけれど。
帰りを待つ人がいる。私達には、お互いに。
帰らなくてはいけない。
そんなことはずっとわかっていて、けれど考えないようにしていた。
ズルズルと引き摺り続けた関係に名前があるとすれば、普段は口にする事を憚るような、決して綺麗だとは言えない名前だろう。
やめようと、何度も思った。
もう終わりにしようと、どちらからともなく言い出した事もあった。
それでも、切り離そうとすると縋ってしまう。ひだまりで微睡むような曖昧な時間が愛おしい。
だから私達は情事の最中はお互いに何も言わないし、彼が私の声を遮るのもきっと、この時間の終わりを知りたくないからなんだと思う。