[短篇集]きみが忘れたむらさきへ。
「好きだとか、愛してるとか、そんな関係でいいのなら、貴方なんて大切じゃなかったよ」
怪訝そうに眉を寄せて、『貴方もそうでしょう?』と言外に伝える女が、この先自分と生きてゆく存在なのだと、はっきりと自覚をした瞬間だ。
出会った日、目が合った瞬間に、女がたった一度僕から目を逸らしたことが原因で、一生壊せない壁が出来たなんて大袈裟だろうか。
女があの日、僕を見てどう思ったのか、目を逸らしたことを覚えているのか、気になるけれど訊いたことはない。
それが関係が崩れてしまうことを恐れているのではなく、女にとって居心地の悪くなる問いを投げかけたくなかった。
信頼が成り立っていないにしても、僕は相当この女に惚れ込んでいるし、月並みな愛の言葉では足りないくらい、胸の内を食い尽くされている。
臆病な僕でごめん。
君に似合う男になれなくてごめん。
でも、手放せなくて、ごめん。
「今更じゃない?」
氷が溶けて薄くなったアイスコーヒーを一口煽り、うっすいね、と笑う女の言葉に頷いて見せる。
ほんとうに、今更、だ。
女にとっては、今更僕を逃したら色々不都合があるだけなのかもしれないけれど、それさえどうだっていいこと。
「ちゃんと好きだよ。不安が消えないってわかってて、そばにいたいと思うんだから、もうどうしようもない」
「そっか。なら、いいのかな」
「いいよ。結婚しよ」
三十分前に、一度はぐらかしたプロポーズの返事を、今このタイミングでするのだから、この女は心底タチが悪い。