[短篇集]きみが忘れたむらさきへ。
鳥肌まで立てたのは、女に畏怖したわけではなく、昔の記憶が呼び覚まされたからだ。
ふざけて女の首筋に冷えきった手を押し当てた時、底冷えするような声と目に、もう二度とこんなことはするかと決意した。
ああ、しまったな、と冷静に考えられたのは、過去にそんなことがあった後、約二週間ロクに口を聞いてもらえなかったことの方が鮮明に思い出せたからだろう。
「泣くし喚くし、たぶん想像出来ないくらいのどん底で生きた屍みたいになると思うんだけど。冗談でもそんなこと言う人とは一緒になりたくない」
「え…? は、待って、嘘だって」
「嘘でも言っていいことと悪いことがあるよね。何でもアリだと思ってるの? 普段が普段だから、多少は目を瞑るところはあるけど、今のは無理」
僕の想像の範疇に収まってくれる女じゃないことは知っているし、今のは完全に僕が悪かったけれど、なんだその言い回し。
まるで…別れ間際みたいな。
「ごめん。…頭冷やす。帰る」
捲し立てたせいで乱れた呼吸を、ひとつ大きく息を吐くことで立て直して、女は腰を上げた。
律儀に財布からアイスコーヒーの代金を取り出す間が、唯一の引き止めるタイミングだったのに、僕は放心しきっていて。
ハッと我に返った時には、女はガラス窓の向こう側にいた。
「ま…じかよ…」
プロポーズの結果が惨敗だったとか、そんな問題じゃない。
女を怒らせた、それだけが問題なのだ。
失言を悔やんだってどうしようもないのだから、せめて引き止めるくらい出来なくてどうする。
一口分が減っただけのアイスコーヒーを恨みがましく睨みつけたところで、何も発散されない。
男は、女の残した水っぽいアイスコーヒーを一口喉に滑らせて、どうしたものかと途方に暮れるしかなかった。
【墜落飛行】
―どこで墜ちるかわからないのに
飛び立てるわけがない―