[短篇集]きみが忘れたむらさきへ。
しばらく、ドアを挟んでお互いに黙っていたけれど、微かにカンカン、と階段を上がる足音が聞こえて、急かされるようにこちらからドアを開けた。
少し驚いた顔の彼女の目元が、赤く腫れていることに気が付いたのは、ほとんど衝動に任せてその腕を引き入れた後だ。
「泣いた…の?」
喉はカラカラに乾いていて、ようやく発した声は掠れた。
彼女は顔を俯けて、ぎゅっと自分の腕を抱えていて、弱々しく見えた。
「わたし、やっぱり」
「…うん」
「貴方がいい」
泣いているのなら、と背中を摩ろうとした手は、触れる前に止まった。
ぽたりと彼女の瞳から零れた涙が床に落ちたことに気付いても、僕は動くことができなくて。
言葉の意味を理解するために、頭の中で反芻してみても、余計に混乱した。
「何も言わないの」
「いや…あの、言いたいんだけど。何を言えばいいのかわからない」
「困らせたかったわけじゃないんだよ」
涙声に交じる、落胆したような声のトーン。
なにか誤解しているんじゃないか、と。
それは困ると本能で悟ってしまえば、後は早かった。
「僕も、きみがいい」
すとん、と胸に落ちた響きに、これで良かったのだと、納得が出来た。
これで良かった、これだけで良かった。