[短篇集]きみが忘れたむらさきへ。


しばらく、ドアを挟んでお互いに黙っていたけれど、微かにカンカン、と階段を上がる足音が聞こえて、急かされるようにこちらからドアを開けた。


少し驚いた顔の彼女の目元が、赤く腫れていることに気が付いたのは、ほとんど衝動に任せてその腕を引き入れた後だ。


「泣いた…の?」


喉はカラカラに乾いていて、ようやく発した声は掠れた。

彼女は顔を俯けて、ぎゅっと自分の腕を抱えていて、弱々しく見えた。


「わたし、やっぱり」


「…うん」


「貴方がいい」


泣いているのなら、と背中を摩ろうとした手は、触れる前に止まった。

ぽたりと彼女の瞳から零れた涙が床に落ちたことに気付いても、僕は動くことができなくて。


言葉の意味を理解するために、頭の中で反芻してみても、余計に混乱した。


「何も言わないの」


「いや…あの、言いたいんだけど。何を言えばいいのかわからない」


「困らせたかったわけじゃないんだよ」


涙声に交じる、落胆したような声のトーン。


なにか誤解しているんじゃないか、と。

それは困ると本能で悟ってしまえば、後は早かった。


「僕も、きみがいい」


すとん、と胸に落ちた響きに、これで良かったのだと、納得が出来た。

これで良かった、これだけで良かった。


< 71 / 112 >

この作品をシェア

pagetop